世界的デザイナー、コシノジュンコさんは、最近ではテレビCMにも登場し、TBSラジオ「コシノジュンコMASACA(マサカ)」のパーソナリティーを務めるなど、活動はデザイナーの域を越えて多岐にわたる。2020年開催の東京オリンピック・パラリンピック競技大会では組織委員会の委員にも名を連ね、日本全体の〝祭り〟として盛り上げたいと意欲的だ。
半世紀前東京五輪を機にパリへ
1964年、日本中、いや世界中が熱狂した東京オリンピック開催時、コシノジュンコさんは飛行機に飛び乗り、パリに向かった。
「行くなら今しかない。これを逃したら、二度とチャンスは来ない。そう思いました」。フフッと笑って、当時を振り返りこう続ける。
「オリンピック観戦で世界各地からたくさんの人が日本に来るけれど、各国に帰る飛行機はガラガラです。今のように日本人が気軽に海外旅行する時代じゃないですから、旅行会社は空席を埋めようと、通常より安いヨーロッパツアーを打ち出していました。だから、慌てていろんなところから〝集金〟して、パリ行きを決めたんです」
コシノさんの計画に、お母さまと姉のヒロコさんも便乗し、親子3人で旅をしたという。だが、初めてのパリの印象を尋ねると、表情は曇った。
「パリ北駅に着いた時、『ここは上野駅?』って思いましたね。それぐらい憧れのパリとは思えない雰囲気でした」と既視感ある風景にがっかりし、夢と現実のギャップを見せつけられたという。だが、この経験が等身大のパリと渡り合う土台になったのかもしれない。78年にパリ・コレクション(以下、パリコレ)でデビューしてから22年間、パリのステージを圧巻の衣装で華々しく飾り続けた。
「参加当初から、パリじゃない、自分が住んでいる東京が世界で1番。そう思って挑みました」
国内ではすでにグループ・サウンズのステージ衣装や、寺山修司さん演出の舞台衣装を手掛け、70年開催の日本万国博覧会(通称、大阪万博)の三つのパビリオンのユニフォームを担当するなど、すでに〝時の人〟だった。そして、パリコレへの参加で、世界的なトップデザイナーへと開花していく。
経験を積んだ先にある自信
北京、ニューヨーク、ベトナム、キューバ、ポーランド、ミャンマーなど、世界中を飛び回ってファッションショーを開催した。
「ショーの途中で停電になったり、タクシーで5時間夜通し走ったり、もういろんなことがありました。でも、荷物をロバで運ぶ経験をしてからは何も怖くありませんね」
今でこそどれも笑い話とほほ笑むが、輝かしい経歴には数々の困難やアクシデントがあったのだろう。それを一つ一つ乗り越えた経験が、かけがえのない財産となって、今のコシノさんの自信、キャリアへとつながっているようだ。
そんなコシノさんが思い出に残る国として、96年に初めて訪れたキューバを挙げた。
「なんでキューバ? って日本では驚かれました。日本ではキューバは物騒な国というイメージが強くて、一方のフランスでは天国みたいな国という明るい話ばかり。それなら行って確かめようと思いました」
行動力のあるコシノさんは、電話番号案内「104」でキューバ大使館を調べるところから始め、キューバ行きを現実のものにする。しかも首都・ハバナにある有名な高級キャバレー、トロピカーナの衣装デザイナーがコシノさんの大ファンで、出会いを機にトロピカーナでのファッションショー開催にまで話が進んだというからすごい。
「キューバでのお給料が10ドルに対し、トロピカーナのフィーは50ドルという完全に海外の観光客を対象にしたお店で、ダンサーが300人はいましたね。その中からモデルを選抜してショーを開催したのですが、ショーの開催前にトロピカーナのディレクターで、世界的に有名な演出家兼振付師のサンチャゴ・アルフォンソさんが、大勢の前でこんな名言を残してくれたんです。『今は夢、明日は歴史』って。ショーが終わって、多くの人から『その通りになりましたね』と言われて、私も鳥肌が立ちました」
当初、コシノさんは10月のパリコレを控えていたため、12月にショー開催を考えていた。だが、急きょ8月末に繰り上げる。中国、ベトナム、どの国に行ってもピエール・カルダンが先陣を切っており、コシノさんは女性初、東洋人初と言われるにとどまっていたことが念頭にあった。
「世界初の開催と言われたいがために、カルダンより2週間早く開いたの(笑)」
この負けん気の強さと実行力でかなえたラテンのノリ全開のファッションショーは、訪れた各界の要人らを熱狂させ、まさにキューバの〝歴史〟に名を刻んだのだ。
軸があってのジャンルレス
そんなコシノさんは、近年、国境を越えるばかりか、ファッションという枠すらも越えた活動も顕著だ。スポーツのユニフォームや政界の要人が集う和食レセプションのプロデュース、沖縄の琉球海炎祭では花火のデザインを手掛けるなど、変幻自在ともいえる活躍をみせる。
「ファッションに固執していないから、ものすごく活動範囲は広いわね。でもファッションデザイナーという軸があればこそできるともいえます。それに自分を主張していたら、どの国とも合いません。その国の文化やファッションを取り入れるというより、こちらがなじんでいく、理解していくことが重要だと思います」
国と国ではなく人と人、人間性のつながりが大切というコシノさんには、日本と他国の懸け橋としての役割も増えてきている。その一つに東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の文化・教育委員という役目がある。
「喜んでお引き受けしました。私自身、オリンピックが大好きで、過去にいくつも観に行っています。だから余計に64年の東京オリンピックを観ていないというコンプレックスと申し訳ないという気持ちがずっとありました。ですから最近はどこに行っても、関わったり、楽しんだりした方がいい、東京って付いてるけれど日本のオリンピックよと伝えています」
コシノさんは〝祭り〟をテーマに盛り上げていきたいと語る。オリンピック・パラリンピックを広くアートや文化の祭典と捉えてほしいという。また「パラリンピックが成功してこそオリンピックの成功」と断言し、交通機関のバリアフリー化の遅れを懸念する。一方、経済が低迷するといわれているオリンピック後の姿には希望を持つ。
「25年の大阪万博実現に期待しています。私も誘致特使として、国内外でPRしています。折しも今年は日仏交流160周年、京都・パリ友情盟約締結60周年です。この流れで、私も今年6月19日にパリで能とコラボレーションしたファッションショーを開催します」
このショーは、京都を通して日本文化を紹介する最高のステージにしたいと意気込む。どんな役割を担っても、コシノさんは有言実行で未来を華麗に切り開く。
コシノジュンコ
デザイナー
大阪府岸和田市生まれ。文化服装学院デザイン科在学中、新人デザイナーの登竜門といわれる装苑賞を最年少の19歳で受賞。1978年から2000年までパリ・コレクションに参加。その間も北京、NY、ベトナム、ミャンマーなど世界各地でファッションショーを開く。舞台衣装やスポーツのユニフォーム、インテリア、花火などのデザインも手掛け、17年には文化功労者に選ばれた。現在、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の文化・教育委員を務める
写真・谷口和也
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