サイカワ
新潟県柏崎市
電線をつくる機械を国産化
伸線機メーカーのサイカワは、新潟県沿岸部の柏崎市にある。伸線機とは金属線を引き伸ばして電線を製造する機械で、その電線は大小さまざまな機器に使われている。創業は明治43(1910)年で、それまで農耕器具をつくる鍛冶屋をしていた初代の西川藤助が、石油さく井(せい)(石油井戸の掘削)のための機械や部品の製造を始めた。現在は四代目の西川正男さんが社長を務めている。
「かつて柏崎地域では石油が産出され、石油の井戸を掘る機器のほとんどは輸入されていました。それを国産化し、輸入機器のメンテナンス部品は地元でつくろうと、部品加工や装置を製造する産業が栄えてきました。うちの会社もそのころに設立されました」
そして、二代目の弥平治の時代の、理化学研究所の所長を務めていた大河内正敏博士との出会いが、その後のサイカワの運命を決めた。理化学研究所が自分たちで開発した吸湿剤やピストンリングを製造する工場を、柏崎に設立する手伝いをしたのが二代目だった。
「そのときに大河内博士が二代目に言ったのが、海外はもう電気の時代で、いずれは日本もそうなる。電気には電線が必要で、電線をつくる機械は国産化するべきだから、あなたの会社で伸線機をつくりなさい、ということでした」
大河内博士はドイツから古い伸線機を輸入し、二代目の会社に提供。多くの部品が欠けていたが、社内で機械を分解して設計図をつくり直し、昭和9(1934)年に第1号機が完成した。それから同社の伸線機製造が本格化していった。
「問答無用係」の精神
「当時、伸線機の需要がどれほどあったのかは分かりませんが、業績は右肩上がりだったようです。その後、戦争が始まり、兵器に使われる機器をつくっていかざるを得ない時期がありましたが、終戦と同時に伸線機の製造を再開しました。戦後の復興で電線の需要が高まっており、それをつくる伸線機の需要も高まっていました」
昭和33(1958)年に正男さんの父である勉さんが三代目を継ぐと、それからは高度経済成長とともに東京でのオリンピック開催も決まり、電線の需要はどんどん高まっていった。伸線機もつくればつくるほど売れる時期が続いたが、東京オリンピックが終了すると、景気が下り坂になっていった。
「そこで父は、自分たちで設計した伸線機を完成品として販売するのではなく、『お客さまのご要望は全てかなえるぞ』との号令を社内にかけ、そこから伸線機の100%受注生産を始めました。そして、設計部門に『問答無用係』という部署をつくり、気骨のある設計士たちが配属されました」
問答無用係の任務は、顧客の要望には問答無用で全て応えるというもので、今はこの係はなくなっているが、その精神は今も会社に残っていると正男さんは言う。
「既製の機械をつくっていけば、納期も早いし価格も安い。一方、受注生産は価格は高いが、お客さまのご要望を100%かなえることができる。その二つの間で葛藤があったようですけれども、私の代でも100%受注生産を続けており、忙しくさせていただいているので、やはりお客さまからはそこが評価されているのだと思います」
小さな会社だが世界を相手に
正男さんは、大学卒業後の2年間、別の会社で経営と営業の勉強をしてから同社に入社した。入社すると営業マンとして客先を訪問し、顧客の要望を聞いて回った。社長になったのは、入社から13年後の1994年、38歳のときだった。まだバブルの名残があり、会社は忙しかったが、すぐに景気は悪くなっていった。正男さんは、すでに海外生産を始めていた顧客から情報を聞き、海外からの部品調達を始め、中国に生産拠点を設ける決断をした。
「お客さまと密に連絡を取り合っていたおかげで海外進出でき、取引先を失わずに済みました。一方で中国からの撤退の決断も早かったですね。7年前のことですが、いいときに引き上げたと思います」
同社はこれまで、40カ国以上の企業と取引を行ってきており、アジアのほかに米国やヨーロッパにも顧客を持つ。
「小さな会社だけれども、世界を相手に自分たちの力で受注して、機械を製造して、アフターサービスまでやる。そんな会社が柏崎にあることを誇りに思ってもらいたいと、社員には言っています。これからも伸線機の100%受注生産で、グローバルニッチトップのものづくりを続けていきます」と、西川さんは最後に力強く語った。
国内唯一の電線製造機械の総合メーカーとして、同社は小回りの効く小さな会社のメリットを生かし、柏崎から世界に向けたモノづくりをこれからも展開していく。
プロフィール
社名:株式会社サイカワ
所在地:新潟県柏崎市大字安田7586
電話:0257-24-4111
代表者:西川正男 代表取締役社長
創業:明治43(1910)年
従業員:約120人
【柏崎商工会議所】
※月刊石垣2022年4月号に掲載された記事です。
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