子どもの教育のために移転
北海道南西部にあり、積雪が少なく気候が温暖なことから「北の湘南」と呼ばれる伊達市で、寿浅は小売り・流通・サービス業を営んでいる。創業は大正5(1916)年。北海道北部の中川郡中川町で、初代の壽淺儀市が雑貨店を開いたのが始まりである。
「初代は四国から北海道に渡ってきた開拓移民で、入植した2年後に店を開きました。結婚して9人の子宝に恵まれましたが、近くに学校がない。そこで北海道南部の室蘭にいい学校があると聞き、室蘭を目指したそうです。そうしたら、その近くにある伊達の気候がよいと聞いて、室蘭の学校へは鉄道で通えるので、伊達の駅前に土地を借り、昭和5(1930)年に移転して同じ雑貨商を始めたんです」と、寿浅社長の壽淺雅俊さんは言う。雅俊さんは初代の孫で、社長としては五代目となる。
新天地で商売を再開した初代だが、その翌年に急逝してしまう。店を継いだ長男の義信さんも、昭和20(1945)年に戦争で亡くなってしまった。その後は初代の妻・いとゑさんが店を守っていった。
初代の次男・弘幸さんは、実業団で野球を続けるために、高校を卒業後、室蘭で就職。ところが、そこで出会った女性との結婚を母親に反対されたために、仕事を辞めて駆け落ちし、夕張郡栗山町にある老舗の小林酒造の門をたたいた。
「当時の社長は参議院議員で、父(弘幸さん)は会うなり、自分を雇ってくれと言ったそうです。それが気に入られて、社員になることができました。昭和35(1960)年のことで、翌年に私が生まれました」
洋酒メーカーで営業トップに
その後、昭和40(1965)年に弘幸さんは札幌に転勤して営業として忙しい日々を送っていたが、母親から戻ってくるよう懇願され、会社を辞めて伊達に戻った。
「父は店を継ぐと、それまで扱い量が少なかった酒類の卸売りに力を入れ、温泉街の旅館に営業して得意先を増やしていきました。それが今の会社の基盤になっています」
一方の雅俊さんは、自分が店を継ぐならもう勉強しなくてもいいと考えて受験勉強をしなくなり、大学受験では滑り止めの1校にしか合格しなかった。
「札幌の大学での4年間は、授業に出ずにアルバイトばかり。人形劇団のチケット販売の営業では、幼稚園や保育園を回り、毎回の公演で劇場を満員にして、結構いい給料をもらっていました」
大学卒業後は北海道にある日本酒メーカーに就職するつもりだったが、父親にこれからは洋酒の時代だと言われてウイスキーのメーカーに就職。札幌勤務となった。
「父が手を回していて、専務面接だけで採用されました。それでも営業の仕事には自信があったので、人の3倍は努力しました。夜はすすきのの飲食店を巡って深夜2時まで飲み、朝は6時に起きて問屋さん回り。土日もない。それを続けていたら、2年目には売り上げが全国トップになりました」
5年目には東京勤務の内示が出て、このままこの会社で頑張って社長を目指そうと考えていたときに父親が病に倒れ、雅俊さんは伊達に戻ることにした。
伊達のポテンシャルに気付く
「私はそれまで経営の勉強をしてこなかったので、取引のある信用金庫に行って、帳簿の見方から教わりました。そして今後は異業種展開をしていこうと考えました。伊達市は人口が当時3万5千人ほどで、これでは酒の卸売りだけでは限界があり、景気の変動によっては一気に会社が傾く可能性もあったからです。そこでまず始めたのが、酒のディスカウントでした」
平成5(1993)年に開店した酒類量販店MAX伊達店は、初年度から予想をはるかに超える売り上げを上げた。これにより、伊達市が持つ消費のポテンシャルに気付いた雅俊さんは、次に化粧品のディスカウントも始め、札幌市にも展開。その後も携帯電話の代理店、コンビニのフランチャイズ店、オフィス用品の販売、保険サービスと、次々に参入していった。
「しばらく私は異業種展開に専念していましたが、それが落ち着くと酒の卸売りに戻り、温泉街や室蘭市の市場に営業攻勢をかけていきました。お得意さまに繁盛していただくために、市場や業界、法制度などの情報をお伝えし、さまざまな提案を行っています。また、HACCP(ハサップ)の認証を取り、品質管理を徹底した商品をお届けしています。今後は葬儀業に付随する仕出し業や花屋など、今行っている業種に関連した商売を始めることを考えています。これからも時代の流れを見据え、着実に進化していきたいと考えています」
本業だけにとらわれず、新たな業種にも果敢に挑戦していくことが、寿浅の強みといえるだろう。
プロフィール
社名 : 株式会社寿浅(じゅあさ)
所在地 : 北海道伊達市山下町161-11
電話 : 0142-21-2800
代表者 : 壽淺雅俊 代表取締役
創業 : 大正5(1916)年
従業員 : 72人
【伊達商工会議所】
※月刊石垣2023年5月号に掲載された記事です。
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