日本で一番長い漢字市名
「寝太郎」の里として知られる山陽小野田市。2005年3月、小野田市と厚狭(あさ)郡山陽町が合併して誕生した。全て漢字の市名では、5文字は日本で一番長く、同市のみだ。
人口約6万3000人の同市は132・99㎢の面積で、山口県の南西部に位置し、下関市、宇部市、美祢市と接している。北部の市境一帯は、標高200~300m程度の中国山系の尾根が東西に走り、森林地帯となっている。中央部から南部にかけては、丘陵性の台地から平地で、海岸線一帯はほとんど干拓地だ。市内中央部には厚狭川、有帆(ありほ)川が流れ、平地部を通って瀬戸内海に注いでいる。市街地は、これら丘陵地から平地部を中心に発達した。この市街地を取り囲む里山、河川、干拓地には田園地帯、そして海が広がり、豊かな自然に恵まれている。
気候は年間を通じて温暖で、降水量の少ない瀬戸内海式気候のため、住みやすい生活環境となっている。市内には山陽新幹線(JR厚狭駅)や山陽自動車道(小野田IC、埴生(はぶ)IC)が、隣接する宇部市には山口宇部空港があり、高速交通網の利便性が高い交通の要衝となっている。産業立地においても好条件で、工業団地が形成されている。
また、六つのゴルフ場や、全国に5カ所ある公営オートレース場の一つ、山陽オートレース場などがある。食べ物は新鮮な海の幸が自慢だが、中でも貝汁がおすすめ。津布田・埴生海岸ではアサリが多く取れ、その貝汁は古くから市民に親しまれてきた。国道190号線沿い、“名物・貝汁”ののぼりが目を引くドライブイン・割烹「みちしお」は、濃厚な貝汁を楽しめるとあって人気を呼んでいる。
新幹線駅を有する県下有数の工業都市
JR厚狭駅南側の丘陵地にある長光寺山古墳は県下を代表する前方後円墳。4世紀後半の地域首長の墓で、大和政権から贈られた仿製三角縁神獣鏡などが多数出土した。5世紀前半の女性の墓とみられる妙徳寺山古墳からは貴重な勾玉(まがたま)、管玉などが出土している。
関ヶ原の戦い後、厚狭南部の領主となった厚狭毛利氏が居館を設け、山陽道が通っている厚狭は宿場として栄えた。現在は、殿町に井戸と石垣の一部がわずかに残されているだけだが、菩提(ぼだい)寺である洞玄寺の裏山には厚狭毛利家の墓所が並ぶ。その中に、女子教育の先駆者、勅子(ときこ)の墓もある。
明治維新後、同市は工業都市としての道を歩む。1881年、国内初の民間セメント製造会社、後の小野田セメント株式会社が設立、続いて、国内でも早期に設立された民間化学会社、後の日産化学工業株式会社が誘致された。
大正時代にも国内初の民間火薬製造会社がつくられるなど、日本の産業近代化の先駆けといえる。同時に、石炭産業も隆盛を極めた。現在も県下有数の工業都市だ。
新幹線厚狭駅は、駅設置にかかる工事費などを地元が負担して設置された請願駅で、山陽本線厚狭駅に併設されている。1975年に4市8町で構成する山陽新幹線厚狭駅設置期成同盟会をつくり、その推進活動を展開してきた。その結果、93年に山口県、同市(旧山陽町)、西日本旅客鉄道の3者間において新駅設置に関する基本協定を締結し、許認可手続きを経て96年に念願の駅が起工、99年に開業した。事業費91億円のうち、山口県と同市(旧山陽町)が約33%ずつ、周辺市町村や寄付などで約34%が工面された。
ゴルフ場、朝陽カントリークラブを経営する、山陽商工会議所の田中剛男会頭は、同市の強みとして、新幹線や道路などのインフラ面に加え、文化や歴史を挙げる。
「文化や歴史、自然、産業、人に恵まれたこのまちの魅力は全国に誇れるものです。古くは奈良時代から交通の要所として栄えました。江戸時代には参勤交代の大名行列が行き来した旧山陽道が通っています。通りには酒蔵のある造り酒屋や和菓子屋など趣のある建物が並びます。またこの地には、厚狭の三年寝太郎や、平安時代の歌人・和泉式部、平安時代の武将で陸奥の国の有力な豪族として勢力を誇った安倍貞任の伝説があります」
灌漑と治水事業を興した人への敬意が物語を生む
多くの人が昔話として聞いたことのある厚狭の寝太郎物語―むかしむかし厚狭の里にものぐさな若者がありました。毎日毎日寝てばかりいるので、寝太郎と呼ばれ笑われていました。村一番のお金持ちで庄屋のお父さんも困り顔。それにはお構いなく寝太郎は三年三月、まるまる寝て暮らしました。ある日ひょっこり起き上がった寝太郎は、お父さんに千石船をつくってくれと頼みました。船が出来上がると、今度は船いっぱいのわらじを買ってくれと言いました。わらじを千石船に積むと次は達者な船子を雇ってくれと言います。訳も分からず言いなりになったお父さんを残し、寝太郎の乗った千石船はどこへとも知れず厚狭川を下って行きました。それから何日たってもさっぱり音沙汰がないので、村人たちはあらぬうわさをしておりました。寝太郎は荒れる海を渡り、遠く佐渡島へ向かっていたのです。やっと佐渡島へ着いた寝太郎は、新しいわらじと古いわらじをただで取り換えてやると島中に触れ歩き、たくさんのわらじを集めました。厚狭を出てから40日たった日、寝太郎の千石船が帰ってきました。寝太郎はお父さんに頼んで、大きな桶(おけ)を急いでつくり、持って帰ったどろんこのわらじを洗わせました。すると桶の底にピカピカの金の砂が山盛りになっていました。寝太郎は砂金を売ったお金で川をせき止め、灌漑(かんがい)用水路をつくりました。おかげで荒れ地だった土地が豊かな水田に変わったという物語。
市内では、寝太郎像、寝太郎堰(せき)、寝太郎荒神社、菓子「ごろり寝太郎さん」、寝太郎みそ、寝太郎カボチャ、寝太郎まつり、市のマスコットキャラクター……、数多くの寝太郎伝説にちなんだ有形無形の寝太郎に会える。厚狭駅前に建つ、稲束とくわを持った寝太郎像。厚狭川沿いにはこの物語をテーマにした千石船の公園、わらじの公園、桶の公園、砂金の公園、ゆめ広場といった五つの公園がある。寝太郎堰について、田中会頭は次のように説明する。
「現在の堰は1968年に完成しました。中世から近世初頭にかけて、厚狭川を高位にせき止め、縦横に構築した水路に水を導入するとともに、水門に分けて余分な水は元の水流に返すという大工事が行われました。莫大な資金と労力を要したと思いますが、いつ誰によって築かれたのか公的な記録が残っていません。寝太郎堰は今も厚狭川の水を守り、その水で水田を潤しています。灌漑と治水という生活に根差した事業を興した人への敬意がこの物語を生み出したといわれています」
寝太郎まつりなどでまちを元気にする
4月に開催される寝太郎まつりでは、円応寺所蔵の寝太郎権現像を見ることができる。寝太郎まつりは58年に始まり、寝太郎の偉業をしのんで行われるもの。着ぐるみの寝太郎君が乗る千石船が繰り出される中、厚狭商店街を練り歩く山車パレードや寝太郎太鼓の演奏など、まちが寝太郎一色に包まれる。 寝太郎まつりに始まり、埴生潮干狩り大会、ほたる祭り、厚狭天神夏・秋まつり、お祝い夢花火、厚狭駅前イルミネーションプロジェクトなど、一年を通しておまつりがある。田中会頭は「商工会議所として企業の経営相談や創業支援はもちろんのこと、地域に本当に必要なまつりを残し、次代につないでいかなければならない。それがまちを元気にできる方法だと考えています」と、商工会議所がリーダーシップを発揮してまつりやイベントに力を入れる理由を熱く語る。 その甲斐(かい)があって、歴史ある元気な企業が多いのではないだろうか。工業都市の一端をのぞかせるのは日本化薬株式会社。1916年、日本初の産業用火薬メーカーとしてスタート以来、数々の技術を生み出し、多彩な製品を世に送り出してきた。同社厚狭工場は、アクリル酸・メタクリル酸製造用触媒や半導体封止材用エポキシ樹脂などを主要製品とする。100周年記念館を案内してくれた厚狭工場管理部長の田実和夫さんによると、「記念館は創業当時に建てられたレンガづくりの建物で、長い間倉庫として使われていたもの。100周年を迎えた記念に、内装をきれいにし、工場の歴史を残す建物として生まれ変わった」という。 そして1887年創業の永山酒造合名会社。1919年に厚狭にレンガづくりで当時新鋭の千石蔵が完成、99年には山口ワイナリーを開業した。2009年と14年に全国新酒鑑評会で「山猿」が最高位金賞を受賞。同社の後継者、六代目蔵元の永山源太郎さんは、「人々に喜びと感動を与える酒造りを、地域の農業を基盤として行い、地域の人々の自慢の種を創造し、地域社会の活性化に貢献する」の経営理念のもと、同社でつくった日本酒を手に全国を奔走する。
山口東京理科大学とレノファ山口が「希望の星」
同市も例外でなく少子高齢化の波が押し寄せる中で、公立大学法人山陽小野田市立山口東京理科大学や、サッカーJ2所属のレノファ山口を「希望の星」と位置付け、期待を寄せる。
山口東京理科大学は16年に公立大学法人となり、工学部に加え18年に薬学部を設置し、公立薬工系大学となった。大学から商工会議所会員企業に商品技術の提案があるなど、シーズ面での産学連携の取り組みを展開。また、大学の魅力が高まることで、県外からの学生たちが増えているという。それだけに学生たちにまつりに協力してもらうことで同市のことを知ってもらい、将来地域をけん引する人材として育成したいという思いもある。
そして、06年に同市にオープンした山口県立おのだサッカー交流公園の活用にも期待が高まる。同公園はレノファ山口の練習場となっており、スポーツによる交流拠点を目指す考えだ。7月には、山陽商工会議所、小野田商工会議所、レノファ山口FCなどが、レノファ山口の選手と同市の小学生が交流する夏休み特別企画「レノファの選手と遊ぼう!!」を同公園で開催した。
「課題は山積しているが、若い人たちに元気になってもらいたい。この地域で働き、楽しく住んでもらいたいと思います」(田中会頭)
両者を生かしたまちづくりに挑む同市。伝統を守りつつ、新しいことを取り入れていく未来志向だ。
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