使用済みのゴム製品を再生
村岡ゴム工業は、1917(大正6)年に創業者の村岡信一さんが東京の錦糸町で使用済みゴム製品の再生を手掛けたことに始まる。当時、ゴムは貴重で、自転車やリヤカーのタイヤ、地下足袋のゴム底を剝がし、それに生ゴムを加えて再生ゴムを生産していた。
「祖父は福井県出身で、家族の生活を支えるために、中学を卒業すると東京に出てきました。そこでゴム工場の仕事を見つけ、下働きから始めました」と、村岡ゴム工業の三代目で、現在は会長を務める村岡実さんは言う。
信一さんは工場で働く中、くずゴムを使って靴底をつくる手伝いをするようになった。当初は、つなぎに生ゴムを使ったため採算が合わず、試行錯誤の末、自転車のチューブを煮て水あめ状にしたゴムを利用することで原価を大幅に削減した。「くずゴムも工夫次第で生ゴムの代用になる」と、信一さんは使用済みゴム製品の再生を開始した。それが17年のことで、その3年後には村岡ゴム工業所を設立した。
「祖父は、自分でつくった再生ゴムを自分でいろいろな工場に売って回っていました。そして、こうしてくれれば使えるなどの意見をもらうと、改良していき、今の再生ゴムのベースをつくっていきました」
ところが、23年に関東大震災が起こり、工場が全焼してしまったのだ。しかし初代はめげることなく、焼け跡からロール機(ゴムを練る機械)を発見すると、それを足掛かりに、工員たちとともに工場を復興させた。
不可能とされた技術を可能に
昭和初期の1928年に工場を亀戸に移転。しかし、45年3月の東京大空襲で、また工場が焼失してしまった。再生ゴムは軍需品だったため、軍需省から栃木県矢板市での工場建設の命を受けた。
「戦時下の建築資材不足で工事が進まない中、ようやく完成したときに終戦を迎えました。その工場は交通が不便な場所にあったため稼働させることなく、千葉県の市川市に工場を移しました」
48年に村岡ゴム工業に改組し、51年に完成した市川本社工場には新しい設備を導入。再生ゴムの新商品開発を進めていった。後に二代目となる元一さんが経営に参加すると、乗用車用タイヤを再生ゴムの原料にする研究を始め、製品化に成功した。
「高度成長期に入りタイヤの需要が増えたため、再生ゴムを必要としていたタイヤメーカーのトラックが、できたばかりの製品を積んで運んでいったそうです。しかしまた、新たな問題が起こりました」
それが、タイヤの内側にスチールワイヤーを使うラジアルタイヤへの移行である。このタイヤを再生するには鉄とゴムを分離する必要があったが、技術的に不可能と見なされていた。これをクリアできなければ、会社をやめるしかない。二代目による、社運を懸けた開発が始まった。
「5年もの歳月をかけてようやくその技術を完成させ、作業工程を再構築し、84年からスチールラジアルタイヤを原料とした再生ゴムの生産を始めることができました」
社長就任直後の新事業が成功
三代目の村岡さんは、35歳の時に後を継いだ。
「私は先代の長女と結婚しましたが、社長を継ぐ予定ではありませんでした。しかし、先代の体調悪化が原因でサラリーマンを辞めて入社しました。さらに、その2年後に先代が亡くなったため、何も分からないまま社長になりました」
そのため新しい提案は役員たちに聞き入れられず、「やってみなきゃ分からない」と説得して始めた新事業が成功した。ゴルフ場の舗装路用に、廃タイヤのチップをウレタンで固めた舗装材を開発し、その事業が軌道に乗ったのだ。一方、工場は老朽化と周囲の住宅地化により移転の必要に迫られた。
「従業員の定年退職が進む一方で新人が入らず、新工場は自動化が必須でした。さらに、将来の都市化で再移転になるのを避けるため、都市部から離れた現在地(千葉県旭市)を選びました」
新工場は完成したものの、自動化した設備がうまく稼働せず、解決させて操業が始まるまでに10カ月も要した。その間、生産を止めるわけにはいかないため、工場移転を延期して生産を続けた。
そして2021年末、村岡さんは会長となり、四代目の社長に息子の良亮さんが就任した。
「息子には、決断したらとことんやって、その結果に責任を持てと伝えてあります。苦労を自分で乗り越えていかないと、経営者として強くなれないですから」 代々、逆境の中で事業を立て直して発展してきた同社。その姿勢は「挑戦と責任」を貫く経営哲学として受け継がれ、再生ゴムの未来を切り開いていく。
プロフィール
社名 : 村岡ゴム工業株式会社(むらおかごむこうぎょう)
所在地 : 千葉県市川市南八幡4-6-5 ラフィネ市川1F
電話 : 047-378-7746
HP : http://www.muraokagomu.co.jp
代表者 : 村岡 実 代表取締役会長
創業 : 1917(大正6)年
従業員 : 54人(パート・アルバイトを除く)
【市川商工会議所】
※月刊石垣2025年12月号に掲載された記事です。
