長く日本の海外生産拠点であり、巨大な市場も含めて日本と深い経済関係を持ってきた中国だが、昨今、関係が急激に冷え込み、特定の国への経済的依存の危うさを露呈させた。一方で、日本にとって中国に次ぐアジアの製造拠点であり、巨大市場としての可能性も秘めるASEAN(アセアン)への期待が高まっている。今号はASEANを有望な市場と考え、進出した企業の決断に迫った。
ASEAN(東南アジア諸国連合)
東南アジアの地域協力機構として1967年に発足。現在はインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ブルネイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジア、東ティモールの11カ国で構成されている。ASEANはEUのような統合体ではなく、各国の主権を尊重しながら協力を進めている。域内人口は約7億人に達し、中国、インドに次ぐ巨大市場を形成している。世界経済の成長センターの一つともいわれる。
田口 裕介(たぐち・ゆうすけ)
独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ) 調査部アジア大洋州課 課長代理
総論
海外進出を検討する企業にとって、カントリーリスクを踏まえた進出先の選択は、重要な経営判断になっている。巨大市場であり、日本企業の生産拠点として長く重要な位置を占めてきた中国との関係は、近年の政治・外交情勢の変化を受けて揺らぎを見せている。こうした状況の中で、日本企業の関心が高まっているのがASEANだ。そこで、ASEANの経済環境に詳しい日本貿易振興機構(ジェトロ)の田口裕介さんに日本企業の進出先としてのASEANの現状を伺った。
カントリーリスクが高まりASEANへの注目が集まる
日本企業がASEANで積み上げてきた製造業の基盤は大きな強みです―そう語るのは、ジェトロ調査部アジア大洋州課課長代理の田口裕介さんだ。1985年のプラザ合意を契機とした急激な円高により、日本企業は生産拠点を求め、ASEANへ進出した。その後、WTO加盟などに伴い製造業の主力拠点は中国へシフトしたが、2010年代に入ると中国依存のリスクを避ける「チャイナ・プラスワン」の動きが広がり、ASEANが改めて注目されるようになった。
こうした変化は、世界の投資動向にも表れている。世界の対内直接投資の推移を見ると、近年はASEANへの投資額が増加し、世界全体に占めるシェアも拡大している(図1)。中国と並ぶ主要な投資先として、ASEANの存在感は年々高まっている。
その要因として、ASEANそのものの成長と、近年では、地政学リスクを踏まえたサプライチェーン再編の動きがある。特定の国に依存しない供給網を構築するため、複数の地域に生産拠点を分散する企業が増えており、ASEANがその重要な受け皿となっていると田口さんは指摘する。
「これまでASEANで積み上げてきた土台を生かし、DXやGX(グリーントランスフォーメーション)といった新しい分野へ展開していくことができるのです」
一方で、ASEANの役割は近年、大きく変わりつつあるという。
「現在のASEANは、単に安い労働力を求める場所ではありません。経済成長によって所得水準が上昇し、消費市場としての魅力が高まっています。さらに近年は、デジタル分野や新産業でもイノベーションが生まれており、国際ビジネスの重要な拠点として存在感を強めています」
生産拠点から消費市場へ 変わるASEAN
日本企業の海外製造拠点の分布にも変化が表れている。中国の拠点数は依然として多いものの、近年は伸びが鈍化している。対照的にASEANでは拠点数が増加しており、タイやベトナム、インドネシアなどで日系企業の製造ネットワークが広がっている。とりわけ、若い労働力の豊富なベトナムやインドネシアでは工業化が進み、電子機器や自動車関連など幅広い産業で日系企業の進出が続いている。企業の集積は、新たな参入を呼び込み、地域全体の産業基盤をさらに強化するという好循環を生んでいる。
「ASEANには長年にわたり、日系企業の製造拠点が集積してきました。サプライチェーンや取引ネットワークが既に形成されているため、新たに進出する企業にとっても事業を始めやすい環境になっています」
加えて、ASEAN主要国の1人当たり名目GDPは過去30年で大きく上昇しており、製造拠点として発展してきた国々が、今や有力な消費市場へと成長しつつある(図2)。こうした変化を背景に、ASEANは中小企業にとっても従来の生産拠点という位置付けを超え、新たなビジネス機会が広がる地域となっている。
例えばタイでは、コロナ禍を契機にアウトドア・キャンプブームが広がり、郊外には大型専門店が登場している。都市化や核家族化に伴い、ペット市場も急拡大しており、ペットフードにとどまらずペットサロンやペット保険といったサービスが急速に普及している。さらに、ヘルスケアや介護関連、日本食関連の市場も拡大している。
田口さんはこう語る。
「所得が上がると生活スタイルが変わり、新しい市場が生まれます。日本から見るとまだ早いと思われる分野でも、現地ではすでに市場が形成されていることがあります」
日本のモノやサービスが持つ品質や信頼性は、ASEANの消費者にとって依然として強いブランド価値を持つ。その強みを生かしながら、現地のニーズに合わせた商品やサービスへ転換できるかどうかが、中小企業がASEAN市場で成功するための重要なポイントだ。
ただし、ASEANは一つの国ではない。政治制度、経済規模、産業構造、法制度などは国によって大きく異なる。企業が進出を検討する際には、賃金水準や市場規模だけでなく、サプライチェーンの状況や規制環境、パートナー企業の有無などを踏まえて進出先を選ぶ必要がある。
国ごとに異なる事業環境 デジタル化とESG対応
では、ASEANにはどのような特徴を持つ国があるのか。
タイは、長年にわたり日系企業の集積が進んできた国で、自動車産業を中心にサプライチェーンが形成されている。新規参入企業にとっても取引先やパートナーを見つけやすい環境が整っている一方で競争も激しい。
「タイには日系企業が多く集積しているため、ビジネスパートナーを見つけやすい利点があります。ただし、入りやすいだけに競争も激化しており、製造業でもサービス業でも生き残ることが難しくなってきています」
ベトナムは、若い労働力が豊富で賃金水準も相対的に低く、理系人材の育成にも力を入れている。そのため、IT・製造業の両面で人材を確保しやすい土壌がある。しかし、ハノイやホーチミン市では人材獲得競争が激化しており、採用や定着に悩む企業も少なくない。
「どの国が良いか、という問いへの答えは一概には出せません。自社の業種、事業規模、現地パートナーの有無、進出の目的が販売なのか生産なのかによって最適解はまったく異なります」
そこで、ジェトロでは各国の事業環境について、最新かつ詳細な情報を提供し、日本企業の海外展開を支援している。
デジタル化の波は、ASEANにも押し寄せている(図3)が、制度整備は道半ばの状況だ。田口さんは、ASEAN特有の構造的課題を指摘する。
「ASEAN各国は、それぞれ異なる法制度や規制体系を持っています。データの越境移転ルールや個人情報保護法制、電子商取引の規制など国ごとに対応が求められるため、日本本社が統一的なデジタル戦略を展開しようとしても現場では個別対応が必要になります」
とはいえ、現在はASEAN全体でデジタル分野のルールを整備する「ASEANデジタル経済枠組み協定」(DEFA)の準備が進んでおり、今後はデジタル投資がさらに拡大する可能性があるという。デジタル技術は、中小企業にとって海外拠点との距離を縮める手段にもなる。工場設備にセンサーを取り付けてデータを収集し、日本から現地工場の状況をリアルタイムで把握する「デジタルツイン」のような仕組みも広がりつつある。
「例えば、現地工場でトラブルが起きても、日本にいる技術者がデータを見ながら対応を指示できます。熟練技術者が常駐しなくても遠隔指導ができる時代になっています」
ESG(環境・社会・企業統治)への対応も、海外拠点を持つ企業にとって避けて通れない課題だ。
「サプライチェーン全体での人権や環境への配慮は、海外取引において不可欠な前提条件になりつつあります。特に欧州企業と取引を行う企業は、早めの対応が求められます」
現地に通う経営者が結果を出していく
では、海外進出を成功に導くために中小企業が今なすべきことは何か。田口さんは三つのポイントを挙げる。第1のポイントは「自社の強みの棚卸し」、第2のポイントは「進出国の制度・競争環境の確認」、そして第3のポイントが「現地パートナーと販売チャンネルの見極め」である。田口さんはこの3点を整理した上で、「どの国で、誰と、どの戦い方なら勝てるのかを事前に考え抜くことが成否を分ける」と説く。
加えて、田口さんが繰り返し強調するのが、経営者自身が現地に足を運ぶことの重要性だ。毎月のようにタイへ通い販売店の様子を確認している経営者の例を挙げながら、次のように指摘する。
「現地に何度も足を運び、消費者の生活に触れ、ビジネスパートナーと顔を合わせることで初めて見えてくるものがあります。そうした現地感覚の積み重ねが、的確な意思決定の土台になります」
海外展開のハードルは、決して低くない。しかし、ジェトロは国内外の拠点を通じて、市場調査からパートナー探し、法規制情報の提供、専門家への相談まで幅広い支援メニューを提供している。
IMFの見通しによると、ASEANの名目GDPは、2027年に4兆7000億ドルに達し、日本を上回る規模へと成長する。人口増加と経済成長が続くこの7億人市場は今、日本の中小企業に新たな可能性を開きつつある。
