小田屋
鹿児島県南さつま市
敷かれていた見えないレール
鹿児島県の南西部にある南さつま市で和菓子の製造・販売業を営む小田屋は、嘉永2(1849)年に創業して以来、この地で166年にわたり和菓子をつくり続けている。現在の当主は8代目の小田心一さん。父親であり和菓子づくりの職人であった先代から店を受け継いだ。ただ事業承継がすんなりいったというわけではないと心一さんは言う。
「8代続いてきたとはいえ、これまでずっと親子代々受け継いできたというわけではなく、途中で兄弟が継いだりもしているんです。私自身も6年半ほど会社を抜けていた時期があって、その間に先代、今の会長から私の弟に社長をバトンタッチしています。そして6年半たって、また私が会社に戻ってきました。その3年後に社長になりました。なので弟は何代目というのに入っていないんです」
さらには、6代目(祖父)は画家や学校の先生などをやっていて和菓子づくりができなかった。そのため、6代目の妻である祖母が和菓子づくりを引き継いでいたという。「そういったわけで、これまで長く続けてこられた秘訣はと聞かれても、自分でも分かりません。先祖代々やってきた店を自分の代でつぶしてはいけないという思いでやっているだけです。長男の私には、生まれたときから見えないレールが敷かれていましたから」。
心一さんは大学を卒業するとすぐに小田屋に入社。まずは工場に入り、和菓子から洋菓子まで一通りつくれるようになっていた。その後は店に入り、接客をしながら店舗展開などを進めていった。
しかし、家業を継ぐことに疑問を持ち、もう会社には戻らないつもりで退社。家族を連れて鹿児島市に移り、完全出来高制の営業の仕事をしていたという。
「契約を取れないと会社に帰れないような仕事でした。毎日24時間、契約をどう取るかということばかり考えていました。そのときに、サラリーマンとして人に使われるという経験もしました。小田屋に戻ってきてから、当時の経験がとても役に立っていると思います」
経営危機を乗り越えるために
現在、小田屋は南さつま市に3店舗、隣の南九州市に2店舗、南さつま市の南にある指宿市に2店舗を展開している。だが、かつては鹿児島市にも10店舗を持っていたという。
「私が戻ってきた当時、会社は非常に危ない状況でした。利益が出ず、銀行からの借り入れが増えていた。当時は鹿児島市にも10店舗展開していました。そこへ、南さつま市の工場から配送していました。このコストが利益を吸い取っていると私は判断し、すぐに鹿児島市の店舗は全て閉鎖しました。そして、創業の地である今の場所で、地元のお客さまを大切にした経営をしていこうと決めたのです。その結果、今は少し立ち直ったかなというところまでくることができました」
経営が危うくなったとき、会社を存続させていくためには急激な改革を断行することもいとわない。これこそが、小田屋が老舗たり得るゆえんなのだろう。
昔とは違う味の好みと原料
「どうして長く続けてこられたかは分からないと言いましたが、結局、社会の流れに合わせられるかどうかじゃないかと思います。例えば伝統の味を守るといっても、材料そのものが昔とは大きく変わっている。だから、同じ味を続けていくことは不可能です。それに、お客さまの味の好みも時代によって変わっていきます。例えば昔は甘い物が貴重で、甘いお菓子ほど高級品とされていました。しかし今では甘すぎる物は敬遠されがちです。和菓子の原材料となる粉も、今では何をつくるかによって業者から提供される粉が細かく分かれている。かたくなに昔ながらのやり方を守り続けることが必ずしもいいことだとは思いません。味やつくり方を軌道修正して、今のお客さまの口に合う商品をつくっていかなければいけないと思っています」
そのためには常に現場の声に耳を傾ける必要がある。7店舗の店長たちとの定期的な会合では、売り上げを増やすには、客を増やすにはどうしたらいいかといったことを話し合っているという。
「当たり前のことですが、人材というのは大切です。彼らは毎日お客さまと接しているわけですから、彼らの意見はとても貴重です」
そして、次の世代へのバトンタッチも、準備をすでに進めているという。「私の息子はまだ学生ですが、早いうちから家業のことについて意識をさせ、誇りを持てるようにしています。そして、まずは外に出ていろいろな経験を積み、世間を見る力をつけてほしい。社員たちの意見をくみ上げ、会社の進む道を決めるのは社長なのですから」。
プロフィール
社名:株式会社小田屋
所在地:鹿児島県南さつま市金峰町高橋3075-34
電話:0993-77-1170
代表者:小田心一 代表取締役
創業:嘉永2(1849)年
従業員:約50人(パート含む)
※月刊石垣2015年8月号に掲載された記事です。
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