本業の業績が停滞している、あるいはもっと多くの客層にアピールできることがある、と経営者が感じているなら……。それは、新たなビジネスに踏み出すチャンスでもある。本業があるからこそあえて異分野へ挑み、新たな事業の柱とすべく奮闘している経営者に迫った。
空調工事会社が挑む青果店経営 新たな市場開拓と成長戦略
三朋企業は群馬県高崎市を拠点に、建物内の空気環境を整えるダクトや空調設備の工事を手掛けている。その一方、社長の親戚が営んでいた市内の青果店を事業承継し、単なる副業ではなく「新たなビジネスチャンス」として本格的に展開。ショッピングモールに支店をオープンし、さらに新たな業種への開拓に乗り出した。また、ネットショップにも力を入れており、地域に根差した新しい青果店の形を模索している。
事業規模が拡大する中 親戚が営む青果店を承継
1973年に東京都港区で創業した三朋企業の社名は、創業者である先々代が3人の仲間と共に始めたことから、「3人の朋友」に由来する。その後、そのうちの一人である宮石忠雄さんが事業を引き継ぎ、91年に自身の故郷である群馬県榛名町(はるなまち)(のちに高崎市に編入)へ本社を移転。以来、空調設備やダクト工事を中心に、県内のショッピングモール、病院、プラントなどの大型施設で施工を手掛けてきた。
前社長の息子で、現在は社長を務める宮石喜康さんが入社したのは2003年、28歳のときだった。宮石さんは以前、大手住宅メーカーの営業マンとして勤めていた。 「当時の三朋企業は技術力には自信がありましたが、会社の仕組みが整っておらず、顧客対応も十分ではありませんでした。そこで、前職の経験を生かして社内整備を進め、職人への社会人としてのルールやマナーの教育に力を入れていきました。工事業はサービス業でもあるため、対応を改善した結果、リピート発注が増え、現在の成長につながっています。また、若い人も入りやすくなり、定期採用できるようになりました」と、宮石さんは自信を持って語る。
宮石さんは、入社から2年後の05年に社長に就任すると、エアコン工事や精密板金加工といった分野にも取り組み、受注を増やしてきた。また、無駄なコストを発生させないために、現場単位の収支と進捗(しんちょく)状況をリアルタイムに把握できるシステムを導入。工事が予算オーバーした場合には、その原因を追究する体制を整え、再発を防いでいる。こうした取り組みにより、社長就任以来、売り上げは順調に拡大。就任当時、五十数人だった従業員数は2倍以上に増え、事業規模も拡大していった。
そして、宮石さんの社長就任から10年がたった15年、伯父夫婦が高崎市内で経営していた宮石青果店に後継ぎがいなかったため、この店も継ぐことになった。
内装と商品を広げ 売り上げが2倍に
宮石青果店は宮石さんの祖父母が創業した店で、当初は近所の人から借りたリヤカーで青果を売り歩いていたという。店を継いだ二代目(宮石さんの伯父)は、時代が変わり近隣にスーパーができていく中、「なんでも安く売ればいいのではない。素材にこだわった他店にはない商品をつくろう」と考えた。そこで妻とともに試作を重ねてつくり上げたのが、旬のショウガを使用し、シャキシャキの食感と爽やかな酸味に仕上げた「新しょうが漬」。その後、11~12月に「十文字たくあん漬」、5~9月に「らっきょう漬」、11月~翌2月には「国府はくさい漬」と、旬の国産素材に限定した手づくりの商品をつくり出し、地元の人たちから好評を得ていた。 「店は、県道から細い道を入ったところで、近所の人以外は誰も来ないようなところにあり、そこで伯父は漬物に活路を見いだしたのだと思います。この店を継ぐ話が来たとき、始めは積極的に青果店をやろうとは思っていませんでした。しかし、祖父母が創業して大切にしてきたお店ですし、ショウガの漬物がおいしいと有名で、これをやめてしまうのはもったいないと思い、店を継ぐことにしました」
そこで宮石さんは、自社の従業員の一人に店の管理を任せ、店の改装や商品パッケージの刷新を行い、店ではスムージーや酒類も扱うなどして、若い人にも来店してもらえるような形に変化させていった。店を担当する三朋企業の統括部長・岡田嘉明さんは、その後の変化についてこう語る。 「改装当初は、店の様子が変わって入りづらくなったのか、地元のお客さまが減った時期もありました。ただ、それも慣れの問題で、しばらくするとまた戻ってきていただきました。一方で、内装を変えたことによって、それまではお客さまの多くが高齢の方だったのが、もっと若い世代の主婦層の方々にも買い物に来ていただけるようになりました。今では、引き継いだときに比べて売り上げは約2倍になっています」
また、店の引き継ぎとほぼ同時にネットショップも開設しており、こちらは旬の自家製漬物を中心に、季節の果物を詰めたギフトセットを販売している。