歴代2位の通算1045勝と幕内通算807勝、優勝回数31回、昭和63年の53連勝など、現役時代、華々しい実績を誇る九重親方(元横綱千代の富士)。精悍な顔立ちとスピード感のある取り口から「ウルフ」のニックネームで親しまれ、一時代を築いた。
スポーツ万能な少年が興味がなかった相撲の世界に
子どものころから運動神経が抜群。中学時代は、バスケットボール部に所属しながら陸上の走り高跳びや三段跳び、さらにはバレーボールや水泳でも、大会があると〝助っ人〟として駆り出され、陸上では地区大会で優勝するほどスポーツ万能な少年だった。
それが、全く興味がなかったという相撲の世界に飛び込んだ理由が面白い。
「親方(先々代の九重親方、元横綱千代の山)が北海道の同じ町の出身というつながりがきっかけで、地方巡業で近くに来られたときに勧誘されました。当時、中学3年で身長が177〜8㎝あって、同級生より頭一つ体が大きかったからスカウトの目に留まったのかもしれません」
相撲をじかに見たのはそのときが初めてだったそうだが、最初は入門を断った。
「すると、『また来るよ』といって帰ったと思ったら、次の日、本当にまた来てくれてね。それで『東京に連れていってあげるよ。飛行機にも乗せてあげる』って。『相撲をやってみないか?』とは一言も言われず、もろ手を挙げて喜んだね(笑)」
父親は「自分で考えなさい」と言ってくれたが、母親と姉には「何もそんな厳しい世界に行かなくても……」と反対されたそうだ。しかし、頭の中が「東京」「飛行機」でいっぱいになっていた少年の耳にそんな言葉は入らず、中学3年の夏休みが終わるころに上京。都内の学校に転校し、九重部屋に入門した。
「ところが、部屋に入って力士を見ただけで体の大きさに度肝を抜かれました。生活も一変して、学校が終わったら稽古してそれから勉強。本場所があるときは学校を休まなければならない。洗濯や身の回りのことは全部自分でしなければならないし、親のありがたみがすぐに分かりました。生活習慣に慣れるのが大変で、一日を終えるだけでいっぱい。『これは大変なところに来たなあ』と思いましたね」
当時は中学生でも本場所の土俵に上がることができた。初土俵から3場所連続で勝ち越していたが、中学校の卒業を前に、帰郷して地元の高校に進学したいと親方に相談する。
「でも、戻ってこないと思われたのか『東京にも高校はたくさんあるじゃないか。北海道に帰ることはないだろう』と言われました。それで、都内の高校に進学することになったのです」
だが、早起きして朝稽古を終えた後に学校に行き、戻ると部屋の仕事や先輩の用事をこなし、勉強もしなければならない。さらに地方に行くと、長期間、学校を休まなければならなかった。
「相撲と両立することは大変だと分かり、高校は断念しました。親方に伝えるとうれしそうでしたが(苦笑)、勝つことの楽しさが分かり始めた時期でもあったので、自分がしっかりすればやっていけると、相撲一本でいくことを決めました」
けがを繰り返したことが相撲を考えるきっかけに
親方に付けてもらった四股名は「千代の富士」。千代の山の「千代」と、同じ部屋の横綱北の富士(先代の九重親方)の「富士」から取ったものだ。猛稽古で順調に力を付け、昭和50年秋場所で新入幕を果たした。
しかし、当時は体重が100㎏にも満たないなど相撲の世界では体が小さかったにもかかわらず、体格に反して力任せの強引な相撲を取り続けていた。普通の人より肩関節の噛み合わせが浅かったこともあり、脱臼をはじめ故障を繰り返した。
「それまでの取り口は体に大きな負担がかかっていました。けがをしたこともあって自分の体格に合った相撲、攻め方を考えるようになり、完成したのが左前みつを取り、右を差して攻め込んでいく『右四つ』の相撲です。まさに〝けがの功名〟でした」
体重も一気に増えると体を支えることができず、かえってマイナスになるため、少しずつ増やしていった。さらに鉄砲や腕立てなどで相撲に必要な筋肉を鍛えた。こうして自分の相撲が固まり幕内上位に定着すると、技とスピード感のある取り口で横綱・大関陣を次々と倒し、一躍人気者となる。
昭和56年の初場所で初優勝を果たすと、場所後に大関昇進。7月の名古屋場所で2度目の優勝を遂げ、第58代横綱・千代の富士が誕生した。
土俵では凄まじい集中力を見せ、31回を誇る幕内優勝のうち全勝優勝7回、5連覇も達成するなど数々の栄光を手にし、昭和最後の大横綱と呼ばれた。九重親方は「稽古場でやるべきことがしっかりできていれば、取組前に不安になることはない」と話す。
「自分自身をコントロールしながら、気持ちをリフレッシュさせることも大事。物事を大きく考えすぎてしまうと、できなかったときに返ってくるものも大きいですから。階段を一歩ずつ上がるように力を付け、次に行こうと稽古を重ねてきました。一気に前に進もうとすると無理が生じてドーンと下がることもあります。負けても引きずらないようにしていました。考えても仕方ないですから」
家族がいたから頑張ることができた
相撲を取る上では、家族の存在が何より大きかったと振り返る。
「一年のうち半分は地方に行って家を留守にするので、その間に家庭をしっかり守ってくれたカミさんには感謝しています。子どもが生まれてかは、『子どものために頑張ろう』と思うようになりましたね。少し大きくなって話せるようになると『パパ頑張ってね』と言って見送ってくれるし、相撲が分かるようになってからは、負けて帰ると顔に涙の跡が残っていて、泣かせるわけにはいかないと思いました。子どもたちがいたから頑張れたし、そのご褒美として、場所後の優勝記念写真は子どもを膝に乗せて撮りました。自分一人でなく、家族みんなで勝ち取った優勝だよって意味を込めてね」
自分で気付き、解決できる力士を育てる
数々の大記録を残し、平成3年の夏場所で引退を表明。翌4年に九重部屋を継承し、指導する立場になった。
「将来は部屋を持ちたいと考えていたので、現役のときから準備を進めて、いつでもスタートできるようにしていたんです。しかし、いざ始めてみると思っていたとおりにはできず、人を動かすことの難しさをすぐに実感しました。弟子も10人いればみんな性格が違うので、一人一人の長所・短所をしっかり見極め、褒めたり叱ったり、それぞれに合った指導をしなければ持ち味を伸ばすことができないと分かりました。勝負の世界なので、 最後は自分の力で生き残らなければなりませんが、頑張って一人でも多く残ってほしいと思っています」
自分が弟子入りしたころと今の若い力士とでは、気質が違うと九重親方は言う。
「まず『やってみよう』ではなく、最初から『自分にはちょっと無理だな』と諦めている子が多いですね。頑張れば楽しい思いができるということを知ってもらいたいですし、成功体験を話して聞かせることもありますが、自分で課題に気が付き、自分で解決できるようにならないと。それは相撲人生を終えて社会に出てからも同じことだし、万が一、相撲がダメになっても、やり遂げたという思いがあれば社会に出てつぶしが利くと思うんです」
部屋から一人でも多くの関取を育てたいと話す九重親方。子どもから大人まで国民を沸かせた昭和の大横綱は、今も後進の指導・育成を通じて相撲界を盛り上げている。
その「取組」は、まだまだ続く。これからも、九重親方から目が離せない。
九重貢(ここのえ・みつぐ)
第58 代横綱・千代の富士
昭和30 年、北海道松前郡福島町生まれ。昭和45 年9月に15歳で初土俵、49 年九州場所で新十両、50 年秋場所で新入幕。56 年初場所で初優勝し大関に昇進、同年名古屋場所で2度目の優勝を飾り横綱となる。昭和63 年には53 連勝を記録し、平成元年に国民栄誉賞を受賞。平成3年に引退。平成4年、年寄・九重を襲名し九重部屋を継承
写真・山出高士
文・せきねとしこ
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