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100年経営に極意あり!長寿企業の秘密 伝統を守りながら挑戦を続ける

皆美館

島根県松江市

脈々と受け継がれるこまやかな心配り

江戸時代の代表的茶人の一人、出雲松江藩七代藩主の松平治郷は、別名を不昧公といい、その名で広く知られている。彼が好んだ料理に関する文献や言い伝えから、料理旅館皆美館の初代板前長・西村常太郎が独自の工夫を加え作成したのが「鯛めし」。家伝料理として後進に伝え、以来脈々と伝承され今日に及んでいる。

皆美館が宍道湖畔に旅籠を開いたのは明治21(1888)年のことだった。それまでは食酢の製造・販売を生業としていたが、「皆美」の屋号で、湖水や山並みの絶景を生かした宿として開業。当時は、自宅として使っていた2階の3部屋が客室だった。長い歴史がここから始まることになる。

「当時、すべてを切り盛りしていたのは初代の皆美清太郎の妻、ユキだったそうです。彼女の心遣いと奉仕の精神が、皆美館の基礎を築いたようなものです」と振り返るのは、五代目の皆美佳邦さん。皆美館は商人宿としてスタートしたが、次第に料理旅館としての地位を固めていく。そして、やがて松江を訪れる文人墨客から愛される宿として、多くの人に知られるようになる。非常に目の肥えた客から長く支持を得た皆美館。その秘密はどのようなものだろうか。

「それこそ、ユキの時代から培われてきた〝おもてなし〟の心ではないでしょうか。祖父母の時代も、お見えになるお客さまに合わせて掛け軸を変えたり、料理の内容もその人その人に合ったものにしたりするなど、とてもこまやかな心配りをしていましたから」と佳邦さん。不昧公の教えに「客のこころになりて亭主せよ」というものがある。皆美館は、この言葉を家訓として、引き継いでいる。

生き残るために事業を拡大

老舗の料亭旅館として名実ともに松江を代表する宿になった皆美館。しかし、順風満帆というわけではなかった。戦時下は食料の統制で苦労し、戦後は進駐軍のイギリス人将校専用宿舎となった。そして、地元松江の旅館事情も重なり、生き残るために事業拡大の道を選ぶこととなる。外資系のホテルで修業してきた先代の健夫さんから見ると、皆美館の経営は驚くほどのドンブリ勘定だったという。そこで、健夫さんは玉造という別の地で改革を進めることにした。銀行の融資を受けるまでに苦労するが、昭和25年に無事に開業した。

「松江市内の旅館がホテルに取って代わられていく中、大通りから少し奥まった場所にある皆美館だけでは、そのうち立ち行かなくなると父の健夫は考えたようです。そこで、現在、グループ本部がある玉造温泉に別館を建てたんです。ただ、この件については、父と祖父の与蔵の間に大きな意見の隔たりがあり、だいぶもめたようです」

料亭「庭園茶寮みな美」を開業したときも、先代と先々代の意見が衝突した。「皆美の味は、お泊りいただいたお客さまに味わっていただくもの」という与蔵さん。周囲からも、料亭を揶揄する声があったが、最終的には全てを健夫さんに任せた。反対を押し切って、別館で成功を収めていた健夫さんを与蔵さんは認めていたのだ。

そんな中、佳邦さんは大学を卒業すると、東京の日本料理店に就職する。これは家業を継ぐための修業を兼ねてのものだった。

「子どものころから、働く両親の姿に触れ、寝るのも遊ぶのも旅館で、商売と生活が一体でしたから、家業を継ぐのは自然なことでしたね。その中で、自分の人生を築いていこうと思いました」

通常の修業であれば、同業者に修業に行くのだろうが、「調理場のことが分かってないとダメだ」という健夫さんの意向で、日本料理店に決めたという。それから1年半ほど経ったころ、皆美館が東京・赤坂に日本料理店を開くことになった。佳邦さんはこれを機に、修業先を退職し、この日本料理店の運営を手伝うこととなる。開業準備の段階から携わり、売上や仕入の管理といった経理面から人事に至るまでさまざまな経験を積んでいく。「いわば小さな創業を経験できました。後半は支配人をやっていましたから、決断力や判断力、人員の調整や予定を管理するマネージメント力が鍛えられました。この経験が後になって考えると、実に役に立ちました」。

もっと多くのお客さまを海外から呼びたい

そして、佳邦さんは30歳のとき、松江に戻ってくる。その10年後、社長の座に就き、平成10年に郊外型レストランの「ふじな亭」を手掛けた。より安価なサービスを提供し、広く皆美の味を楽しんでもらうという試みだったが、改革を推し進めてきた先代・健夫さんからも驚かれたという。「変な言い方ですが、そこまで敷居の低い、大衆的な店をつくるのかと言われました。でも、バブルも崩壊し、接待の需要も減る中で、家伝の鯛めしももっと多くの方に楽しんでもらいたいと自信を持って始めました。3年前からは『お届け厨房』と題して、仕出しもやっています」。

改装や新規事業などは、人材の、そして組織の活性化につながるというのが佳邦さんの持論だ。「企業30年説というのがありますけれど、何もしないとマンネリが生まれます。それが危機だと思うのです。本業のバネがあるうちに、次の挑戦をしていかないと、ダメになってしまいます。それまで培ってきたものを変化させながら、事業を強化していくのです」。

玉造温泉は、1300年もの昔から親しまれ、風土記にも登場する歴史ある湯治場。昨年は出雲大社の遷宮というイベントもあり、宿泊客は対前年比で20%も増えた。今年は反動を心配したが、10%減にとどまっており、地域としては一安心のように見える。しかし、佳邦さんの目は、早くも次の目標を見据えている。「今、目指しているのはインバウンドの推進です。出雲大社、神話、宍道湖、温泉、古いまちなみ、素材はあります。もっともっと、海外からのお客さまを呼べると思っています」。

プロフィール

社名:有限会社 松江皆美館

所在地:島根県松江市末次本町14

電話:0852-21-5131

代表者:皆美 佳邦 代表取締役社長(五代目)

創業:明治21(1888)年

従業員:130人(グループ全体・390人)

※月刊石垣2014年12月号に掲載された記事です。

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