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100年経営に極意あり!長寿企業の秘密 刺しゅうの新たな可能性を開くオリジナル・ブランドを開発

笠盛

群馬県桐生市

良いことも悪いことも長くは続かない

群馬県の桐生市は、奈良時代から続く織物産地で「西の西陣・東の桐生」といわれるほど織物が盛んな土地柄だ。笠盛はこの地で明治10(1877)年に創業。幕末から明治にかけて生糸商で財を成し、織物業を始めた。

笠盛代表取締役社長の笠原康利さんは、四代目。笠盛は創業以来、桐生の織物産業の盛衰の歴史とともに続いてきたと語る。「良いことも続かないように、悪いことも続かないと先代の父は言っていました。その言葉は、今も私の脳裏に残っています」。

明治から昭和初期にかけての繊維産業は日本経済の優等生。桐生の業界も大いににぎわったが、好況は長く続かなかった。

「昭和5年から6年にかけて起きた昭和恐慌のときは、桐生の繊維業界も大きな打撃を受けた、と父から聞いています。当時社長だった祖父は親分肌だったようで、仲間の借金を背負うことになり、かなり苦労したようです」

戦後は、安い合成繊維を取り入れた着物帯「笠盛献上」を生産し大ヒット。一時は笠盛グループの生産量が桐生の織物生産量の約3割に達したこともあったが、そんな状況も長くは続かなかった。その後も37年に刺しゅう業をはじめるなど、笠盛は変化を続けてきた。23年生まれの康利さんは、家業の盛衰を見ながら育ってきたのである。

価格ではなくオリジナリティーで勝負

「子どものときから、家業を引き継ぐのだと考えていました。一度桐生を離れてみたいと東京の大学に進学しましたが、卒業後は京都の西陣で修業をすることが決まっていました」と康利さんは語る。

ところが、康利さんが大学を卒業する直前に、笠盛は織物業から撤退し、刺しゅう業一本に専念することとなる。そのため西陣での修業は立ち消え、東京で就職することになった。

「それでも、家に戻ることは決めていましたので25歳のときに笠盛に入りました」(康利さん)

当時の笠盛は、大手アパレルメーカーの孫請けの仕事をしていた。ジャガード刺しゅう機と呼ばれる自動ミシンなどの先端技術を早くから導入していた笠盛は順調に業績を伸ばしていく。しかし、やがて生産コストの安い海外製品との競争が激しくなってくる。

そこで、笠盛は海外生産をするためにインドネシアの会社と提携し、現地で刺しゅう生産を開始した。しかし、為替の大暴落などもあって業績は思うように伸びない。

「海外生産には、為替をはじめとするリスクが伴いました。それに他社と同じ物をつくるだけでは、いずれ価格競争の中で疲弊します。他社と違う当社だけのオリジナル商品をつくり、桐生から発信できる会社になろうという考えになったのは、海外での苦い経験があったからです」

具体的な目標を立て社内モチベーションをあげる

康利さんは、笠盛がこれから進む道を示す意味も込めて社員の誰もが分かるように具体的な目標を立てた。「東京で個展を開くこと」「東京に事務所を開くこと」「海外のトレードショーに出展すること」である。それぞれ目標とする時期も具体的に決めた。目標と時期が決まれば、社員も動き出す。

「東京での個展は、今では毎年開いています。東京事務所も福島のニットメーカーさんと共同で設立できました。最終的な目標であった海外のトレードショーもパリで開かれる服飾資材・付属品国際見本市に予定より2年早い平成21年に出展することができました。出展するまで3年はかかると思って準備をしていたのですが、先方から予想外に早く出展許諾をもらいました。慌てて出品する製品を用意しパリに旅立ったのです。それにも関わらず、出店した製品は洗練されたデザインと日本らしいきめ細やかで丁寧に刺しゅうされた技術などが、現地のファッションメーカーなどから高く評価されました。その結果、『V.I.P.Products』に選ばれました」と康利さんは当時を振り返る。

康利さんの戦略は、社外からの評価も高めたが、何より社員に意識改革をもたらした。「海外で評価されたことは自信になりましたね。こうした実績は社員が頑張ってくれたおかげです」。

ファッションを通して世界の人に喜んでほしい

「トレードショーに出展したことで、海外の有名ブランドからもテキスタイルとして高い評価をいただきました。しかし、価格が折り合わず残念ながら取引を断念するケースもありました。そこで、最終製品としての自社ブランドを立ち上げる決心をしたのです」

平成22年、笠盛は刺しゅうの技術を駆使したアクセサリーの自社ブランド「000(トリプル・オゥ)」を発表する。数字の「0」を3つ並べ、〝ゼロから新たな価値を創造する〟〝既成概念にとらわれない新しいものづくり〟に由来しており、000からスタートして999までの千通りの組み合わせがあるように無限の可能性を込めて名付けたという。

「このブランド名は、弊社の若いデザイナーのアイデアです」と、康利さんは微笑んだ。

現在、同社には、本場ヨーロッパでデザインを学び、先端のファッション業界も経験してきたデザイナーが2人在籍している。彼らは、海外で笠盛の名を知り入社したという。彼らがこれからの会社を担っていく人材になることを康利さんはよく理解している。

「社員が一所懸命に努力してつくり上げた製品が、それに見合った価値を持つ製品となるように発信していくことが私の責任です。実は、新ブランドの立ち上げも考えています。製品もアクセサリーだけでなく、バッグや寝具などにも広げていきたい。技術力と販売力を持ち、ファッションを通して世界の人に喜んでもらえることが目標です」。康利さんの目は、すでに世界を見据えている。

プロフィール

社名:株式会社 笠盛

所在地:群馬県桐生市三吉町1-3-3

電話:0277-44-3358

代表者:笠原康利 代表取締役社長(四代目)

創業:明治10(1877)年

従業員:20人

※月刊石垣2014年6月号に掲載された記事です。

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