事例2 〝ジーンズの聖地〟に人を呼び商店街を活性化させる
児島ジーンズストリート(岡山県倉敷市)
岡山県倉敷市児島は繊維のまちとして栄えた。全国から集団就職の女子が集まったことから、児島を代表する商店街である味野商店街は日用品や食料品などを扱う商店街として栄えた。ところが昭和63年の瀬戸大橋開業以降、状況が一変。人口減少や商店主の高齢化などにより商店街は徐々に活力を失っていく。この流れを変えるため、児島商工会議所などは平成21年、「児島ジーンズストリート推進協議会」を発足させ、味野商店街の再生に挑んでいる。
稲作に向かない土壌にめげず繊維のまちとして生きる
なぜ児島は繊維のまちとして発展したのか? それは、児島の土壌が影響していると児島商工会議所の太宰信一専務理事はこう説明する。「かつて児島地域は、倉敷沖の島でした。江戸初期の元和4(1618)年、岡山藩の干拓によって陸続きになったのですが、その影響で、土壌には塩分が多く含まれていたのです。そのため、気候は温暖なものの、稲作には向かなかった。だから児島の人々は、綿花を栽培するようになったのです」
こうして木綿が盛んに生産されるようになった児島では、江戸時代から織物の生産が始まり、明治14年には、岡山紡績業界の先駆企業である下村紡績所が開業。これが児島の繊維産業発展の基礎となる。その後も児島の繊維産業は順調に発展。大正10年ころには学生服の製造が開始された。昭和37年には児島で生産される学生服が全国の学生服生産量の7割を占めたという。
まちの隆盛に伴い味野商店街も昭和30年代に最盛期を迎え、「およそ220店が軒を連ねていた」(太宰専務)という。そのころ日本の若者は、映画『乱暴者(あばれもの)』のマーロン・ブランド、映画『理由なき反抗』のジェームズ・ディーンら銀幕スターのジーンズ姿に憧れていたものの、衣料品の輸入は自由化されていなかった。
そこで児島で学生服を製造していたマルオ被服は38年にジーンズの輸入・受託生産を開始。40年には、国内で初のジーンズ製造を始めた。以後、多くのジーンズメーカーが児島に生産拠点を置き、周辺に染色、織布、洗い加工などの関連企業が集積。そのため児島は「ジーンズの聖地」と呼ばれ、TVや雑誌などさまざまなメディアにも取り上げられるようになっていった。これに伴い、児島を訪れるジーンズ愛好家も増加していく。
ジーンズでまちを再生する
しかし、児島は製造拠点であり販売拠点ではない。そのため、児島を訪れた愛好家から「せっかく来たのに、ジーンズを買える店が少なくて期待外れだった」という声も聞こえてきた。ジーンズストリートの運営を担当している児島商工会議所の末佐俊治さんは当時の状況をこう説明する。「児島を訪れるジーンズ愛好家は増えていたものの、味野商店街の売上増にはつながらず、空き店舗が増加。シャッター通り化が進んでいました」
こうした状況を打開するため、注目したのは「ジーンズ愛好家」だった。すぐ近くまで来ているジーンズ愛好家を何とかして味野商店街に呼べないか? そうした動きは、ジーンズストリート発足以前から始まっていた。平成14年以降、ジーンズの製造会社が次々と味野商店街にジーンズの販売店を出店。同時に老朽化していた商店街を再整備し、イメージを一新した。味野商店街は徐々にジーンズの販売拠点へと変貌を遂げていく。
こうした動きを受けて21年11月、商工会議所が中心となって「児島ジーンズストリート推進協議会」が発足。デニム・ジーンズでまちづくりをするという児島ジーンズストリート構想に基づいた商店街の空き店舗対策事業として味野商店街の一画、400mを児島ジーンズストリートと名付け、積極的に店舗の誘致を開始した。その結果、一つ、また一つとジーンズショップが増加。さらに、「せんいのまち児島フェスティバル」などさまざまなイベントを実施するとともに藍染めの体験ができる施設も準備している。こうした施策が奏功し、シャッター通りだったことが嘘のようににぎわいが戻ってきている。
今では26のジーンズ店がオープン。各店のこだわりの商品・サービスは多くのリピーターを呼んでいる。まち全体がジーンズ一色になるように、シャッターの色や道路などを濃いデニムの藍色でカラーリング。来街者を喜ばせる仕掛けを展開し、ジーンズ店だけでなく雑貨店や飲食店の出店も進んだ。
次の狙いは「外国人」だ。日本製ジーンズは海外でも評価が高いため、ジーンズ目当てに味野商店街を訪れる外国人も少なくない。彼らのニーズをくみとり、逃さないために、外国人旅行者向けの消費税免税店の取り組みのほか、案内看板やマップの多言語化も進めている。「児島ジーンズストリート構想は、ジーンズ目的の観光客を商店街に呼びこみ、各店の売上に貢献するとともに、出店者を増やしていくという狙いがありました。構想を掲げた当初(22年ころ)の年間来訪者数は7000〜8000人程度。それが今では14万人ほどになり、空き店舗も減りました。5年後には100万人を目指したいと思います。そのためには、児島地区全体で観光客を呼ぶ努力をしていかなければなりません」(太宰専務)
太宰専務の言葉通り、児島商工会議所はジーンズだけでなく他の地域資源を磨き上げ、チャレンジを続けている。ジーンズの聖地から次の目玉が誕生する日はそう遠くない。
※月刊石垣2016年4月号に掲載された記事です。
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