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まちの解体新書 「ヤッテマレ!」立佞武多のある伝統の商業都市

23m、7階建てのビルに匹敵する高さの立佞武多。毎年8月4日~8日に祭り「五所川原立佞武多」は開催される。かけ声は「ヤッテマレ!」

ゆったりとした雰囲気の魅力あふれるまち

津軽平野の中央部にあり、岩木山、岩木川、十三湖など豊かな自然に囲まれた五所川原市。人口は約5万8000人、青森県西北の政治・経済・文化の中心地だ。このまちの魅力を五所川原商工会議所の山崎淳一会頭はこう話す。

「私自身も学生時代を含めて8年ほど東京にいましたが、やはり『故郷がいい』ということで戻ってきました。まちの持つ雰囲気が何といっても魅力です。青森県にある地方都市ですから、ごちゃごちゃしていませんし、住んでいる人の心も非常に穏やかだと思います。豊かな自然に囲まれ、食べ物にも恵まれている。こうしたことは故郷が五所川原でない人にとっても魅力といえるのではないかと思います」

青森県は三方を海に囲まれているため、新鮮な海の幸に恵まれている。これに加えて、五所川原の地は温泉も豊富にある。別荘には、源泉かけ流しの温泉付きのものもあるという。五所川原のたたずまいにひかれるのは日本人だけではない。山崎会頭は「私の友人で、世界中を旅してきたアメリカの方がいます。奥さんは日本人ですが、五所川原とは縁も所縁もない方です。夫婦二人で日本中を旅した後、五所川原に別荘を建てて、一年の大半を五所川原で過ごされていますよ」と笑顔で話す。

五所川原商工会議所会頭 山崎 淳一氏

商都再生に向けて

作家太宰治は五所川原市内の金木地区出身。生誕100年の節目である平成21年に銅像が建立された。毎年6月19には生誕祭がおこなわれる

「五所川原は古くから商業で栄えたまちです。東北で一、二を争う豪商『布嘉』の佐々木嘉太郎も出ています。なぜ、五所川原で商業が栄えたかというと、日本海交易が盛んだったから。日本海側に深浦・鰺ヶ沢・十三湊という三つの大きな港がありました。そこで揚がった品物は津軽平野の中心にある五所川原を通って、青森や弘前に流通していきました」(山崎会頭)

北前船が栄えた時代が過ぎた後も、西から海産物、北からは青森ヒバなどの木材が五所川原に集まり、青森や弘前に流通していった。五所川原には、津軽平野の真ん中にあるという地理的な優位性がある。そのため、鎌倉時代の終わりころから現代まで交通の要衝で、商業で栄えるまちだったというわけだ。

しかし平成4年、隣接するつがる市に大規模ショッピングセンター「イオンモールつがる柏」が開業。五所川原市の商業環境が大きく変化し始める。

「投資もしない、行動もしないまちは衰退していくだけ。その現実から目をそらしてはならない」

こうした考えの下、平成5年から『商都 五所川原の再生』に向けた、商業によるまちづくりが開始された。「行動して『まちづくり』をするか、何もせずに『まちこわし』をするか、ということです。わたしたちの目標は駅前の旧商店街区を再生するとともに、新たな商店街区を立ち上げる。この両輪で商都五所川原を再生しようと、平成5年から商工会議所、市、地元の商店主が本格的に活動を始めました」(山崎会頭)。この結果、9年に新商業街区「エルムの街」が開業。新商業街区の立ち上げにより、市内買い物客の流出を防いだだけではなく、現在は青森や弘前などからも買い物客が集まり、にぎわっている。その結果、新商業街区は、さらに商業の集積が進んでいる。

駅前の旧商業街区についても同時に、区画を整理し、環境の整備を進めた。しかし、再生は途上だ。

「環境は大分整備されたのですが、商店主の高齢化、後継者不足などの問題もあり、現在のところ『再生』にまでは至っていません。ただ、駅前の旧商店街区は、1㎞圏内に行政や医療関係の施設などが全て揃っています。現在でも暮らすには最適の場所といえる。今後は、商業ではなく、暮らす場所としての役割が大きくなっていくかもしれません」(山崎会頭)

復活した、「たちねぷた」

立佞武多はブラジルの三大カーニバルの一つであるサンパウロのカーニバルに日本を代表して出場した(写真提供=株式会社ブレイン)

高さが23mにもなる立佞武多。その高さはビル7階に匹敵する。今では五所川原の顔ともいえる立佞武多だが、長い間、運行されていなかった。それは電気が普及したことにより、まちに電線が張り巡らされ、運行が困難になったからだ。このため、佞武多は徐々に小型化されていった。その後、五所川原のまちは二度にわたる大火に襲われ、設計図や写真が消失。こうして、五所川原の立佞武多は幻の存在となっていった。

しかし、平成5年に転機が訪れる。民家で立佞武多の設計図がみつかったのだ。その後、有志で「たちねぷた復元の会」が結成され、五所川原の立佞武多は80年の時を超え、よみがえることになる。そのときは、一夜限りの復活と誰もが思っていた。しかし、その後、市が立佞武多への支援を決める。

「当初は五所川原市内でも、あまり評判になっていませんでしたが、マスメディアに取り上げられたことで火がつきました。地元にいると、すばらしいものでも、なかなかそうは思えないことが多い。でも、今では、五所川原市民は立佞武多を誇りに思っているはずです」と山崎会頭は振り返る。藤田治一専務理事もこう続ける。「当時、立佞武多への支援を決める判断は簡単ではなかったはずです。あの判断があったからこそ、今の五所川原がある。もし、五所川原の顔ともいえる立佞武多が無かったなら、まちの姿は今とは大分違ったでしょう」

そして今年2月、立佞武多はブラジル・サンパウロのカーニバルにも進出を果たした。海外からの山車の出場はブラジルのカーニバル史上初。立佞武多の勇姿はブラジル国営放送から生中継され、現地でも大きく取り上げられた。

「立佞武多の復活は、外部に向けて大きなアピール効果がありました。実際にブラジルでも現地の人から『こんなのは見たことない』と絶賛されました。同時に、五所川原に住む人たちに対するアピール効果も非常に大きかった。私は『自分たちのまちの文化はこんなにすごい』と、誇りをもってほしいのです。とりわけ子ども、若い人たちに。自分たちの住んでいるまちにある祭りはこんなにすごいんだということを意識してほしいですね」と山崎会頭は力を込める。

8月初旬、青森県内各所で「ねぶた」祭りが行われる。青森市のねぶた祭りは8月2~7日、弘前市のねぷた祭りは8月1~7日。そして五所川原の「五所川原立佞武多祭り」は毎年8月4~8日だ。この期間中は日本全国はもちろん、海外からも観光客が青森県にやって来る。

「祭りの期間中はどうしても、市内の宿泊施設が足りません。かといって、ピークに合わせて宿泊施設を増やすわけにもいかない。開催期間を若干ずらすなどの工夫はしていますが……」(山崎会頭)

観光協会も祭り期間の宿泊施設不足解消に向けてさまざまな施策を検討している。五所川原市観光協会の福士義浩事務局長はこう構想を説明する。

「立佞武多の時期はとても気候がよい。この時期には、キャンプをしに五所川原に来る人も多い。だから市内にある克雪ドーム内にキャンプ村をつくろうというアイデアもあります。これならば新規の大きな投資はいりませんから」

観光と農業を次の柱に

十三湖は、おいしいシジミの産地としても知られている

五所川原市は10年前、近隣の金木町、市浦村と合併した。この両地区はいずれも観光資源が豊富だ。

「旧金木町は、太宰治の出生地であったため、太宰治記念館『斜陽館』があります。また、津軽三味線の発祥の地としても知られています。また、市浦地区には十三湖があります。この辺りは鎌倉時代から室町時代に栄えた十三湊という港町がありました。長い間、〝幻〟と言われてきましたが、平成3~5年に遺跡が調査され、東日本最大級の港町があったことがわかりました」(山崎会頭)

これまでは商業のまちとして栄えてきた五所川原。今後は、観光、そして農業にも力を入れていきたいという。

「これまでは、製造業などの誘致に力を入れてきましたが、十分な成果が挙げられているとはいえません。五所川原のある奥津軽地域の観光の体制は、まだ万全ではありませんが、今後、整備を進め、観光を新しい柱に育てていきたいと思います。農業に関しては、十三湖のしじみ、中まで赤い、〝赤〜いりんご〟などがあります。赤〜いりんごはこれまで、酸っぱくて生食には堪えなかったのですが、最近、生食でも堪える新しい品種が出てくるなど新しい動きが出てきています」(山崎会頭)

観光協会の福士事務局長も観光と農業の可能性に期待する。

「金木と市浦と五所川原、この三つを回ろうとすると、結構な時間が掛かります。うまくこの三つをつなげていきたいですね。また今、力を入れているのが、農家に泊まる民泊です。ただ見るだけでなく、体験する観光をつくっていきたいと思います」

将来をもっと語り合おう

「私たちの世代が主役ではなく、〝次〟を見据えて、青年部や女性会の活動を重視しています」と山崎会頭は話す。五所川原では、女性会や青年部の活動が活発で、特に青年部は近年メンバーが増加しているという。山崎会頭は、「若い人の力を借りながら、そして彼らを次の主役として育てながら、まちづくりを進めていきたい。じっくりと時間をかけてやっていこうと思っています」と話す。

女性会では昨年、東北六県の女性会の大会を開催。青年部も今後、大きな大会・会議を誘致していく予定だ。

「大きな会議や大会を開催するのは大変ですが、組織の内部が固まるきっかけにもなります。五所川原のようなまちは、何かを待っていても、全く変わらないし、衰退していくだけ。自ら動いていかなければならない。動くためには、多くの人の力が必要です。大きな会社があるわけでもないし、お金をたくさん持っているわけでもないですから。青年部・女性会の活動を通じて、お互い協力できる関係を築くことが大切です」(山崎会頭)

現在のまちは、20年以上前の取り組みで形づくられたものだ。しかし、当時と現在では状況は大きく異なる。まちの将来の姿をもう一度徹底的に議論し、あるべき形を共有する必要があるのではないかと山崎会頭は感じているという。

「会頭就任後、繰り返し言ってきたのは、もう一回、まちの将来の姿をもっと語り合おうということ。そしてビジョンが明確になってきたら、きちんとした計画を立てて進めていこうということです。そして、その計画は、若い人を中心に進めていきたい。まちの状況も、社会の状況もどんどん変わってきている。もう一度あるべき姿を考える時期に来ていると感じています」と山崎会頭は今だけでなく、将来を見据えている。

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