元帥酒造
鳥取県倉吉市
東郷元帥に気に入られた酒
室町時代には城下町として栄え、今も江戸時代や明治時代初期の建物が並ぶ白壁土蔵群のある鳥取県倉吉市で、元帥(げんすい)酒造は酒造りを続けている。創業は嘉永元(1848)年で、初代・幸次郎が妻のたみとともに酒蔵の倉都(くらつ)本店を開いたところから始まった。
「元々うちは分家で、同じ倉吉で酒蔵をやっていた本家の娘のたみが、幸次郎を婿にもらって小さな酒蔵をやらせてもらったのです。本家のほうは、明治初めに2年続けて酒を腐敗させてしまったために没落してしまったそうです」と、五代目で社長の倉都祥行(よしゆき)さんは言う。
倉吉には鳥取県中部にある大山(だいせん)からの伏流水が流れていることから良質の水が豊富にあり、昔から酒造りが盛んに行われていた。そのため明治初めには40軒ほどの酒蔵があったという。この地で最初はほそぼそと酒造りを行っていた倉都本店だったが、三代目の国治の頃になると、徐々に規模を大きくしていった。
「明治40(1907)年に、のちの大正天皇が山陰地方行啓で倉吉にも宿泊されました。それに随行したのが東郷平八郎海軍大将で、店の近くに宿泊したことから、うちの酒『旭正宗』を献上したところ、気に入っていただけたそうです。ただ、酒の味が気に入られたのではなく、酒の名前に旭の字が入っていたから気に入られたんじゃないかと、小さい頃に聞いたことがあります(笑)。その後、大正2(1913)年に東郷大将が元帥となられたことにちなみ、酒銘を『元帥』に変え、昭和26(1951)年には会社名も元帥酒造に変え、今に至っています」
厳しい状況の中で家に戻る
そういった昔話は倉都さんが子どもの頃から聞いてきているものの、詳しいいきさつを伝える資料が残っていない。平成15(2003)年に隣で発生した火事の類焼で、一部を残して建物が焼けてしまったからである。
「古い文書がたくさん残っていて、私が隠居して暇になったら見てみようと思っていました。それが全部焼けてしまいました。酒銘を『元帥』に変えた件も、当時は軍隊が力を持っていた時代ですから、元帥などという名前を勝手に使うことなどできなかったはずです。昔の文書が残っていれば、その経緯も分かったんじゃないかと思います」と倉都さんは残念がる。
戦後、三代目から四代目・福之助にかけては、全国的に日本酒生産量が増えていった時代で、昭和40年代後半にはピークを迎えた。造れば造っただけ売れるという良い時代が続いたが、その後は徐々に落ちていくばかりとなった。
そうした中、倉都さんは平成6(1994)年、45歳で家業を継いだ。それまではずっと研究者として企業でバイオ関係の研究を行っていたが、四代目である父親の急死により、家に戻ったのだった。
当時から日本酒業界は厳しい状況が続いており、勤めていた会社では「戻らないほうがいいんじゃないか」という声もあったという。それでも倉都さんが家に戻ったのは「沈没するような船にも船長は必要だという思いからです。家に戻ると、酒蔵の杜氏に付いて一から酒造りの勉強を始めました」
観光客への販売に注力
倉都さんがそれまで家業に入らなかったのは、先代が戻ってこいと言わなかったからである。「私が就職して10年ほどは、父は私に『いつ家に戻ってくるんだ』と言っていました。ところが、その後はぴたりと言わなくなったんです。厳しい状況の中、息子に後を継がせるのはどうかと思ったのでしょう。今の私が同じ心境で、息子は外で働いていますが、これから店をやらせて大丈夫かなと心配していますから」と、倉都さんは言う。
倉都さんが家に戻り、社長として最も苦労したのは、造った酒をどう売るかだった。
「うちは小さな酒蔵なので、全国販売ではなく地元のお客さまを大切にして販売していくしかない。また、倉吉は近くに温泉があり、父は観光客を対象に酒蔵見学をほそぼそとやっていました。一般の人が酒蔵独特の聖域に足を踏み入れる感覚も心地よいものではないか、ということに着目し、より多くの消費者に酒を売っていくにはこれしかないと思いました。最近では、酒を購入されたお客さまがその後、元帥のホームページから注文してくれることも増えています」
日本酒業界が厳しい中、会社の今後については、「少子高齢化と地方独特の構造的な不況の中で零細な酒造業がどう生き延びていくか、現状分析とともに外から客観的に物事を見る時間を大切にしたい」と語った。
地酒の灯を大切に、元帥酒造はこれからも地元の米を使い、この土地の風土に合わせた手法で酒造りを続けていく。
プロフィール
社名:元帥酒造株式会社(げんすいしゅぞう)
所在地:鳥取県倉吉市東仲町2573
電話:0858-22-5020
代表者:倉都祥行 代表取締役社長
創業:嘉永元(1848)年
従業員:9人
※月刊石垣2020年1月号に掲載された記事です。
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