フランス文学が専門の私が渋沢栄一に興味を持ったきっかけは、1989年の東欧革命に始まる共産圏崩壊でした。崩壊により共産圏の国々に資本主義が根付くのかと注目していたのですが、そうではありませんでした。非常に不思議に思い、資本主義は人間が共同の意思でつくり上げる過程を経ないと誕生しないのではないかという疑問を持ちました。
サン=シモン主義を日本に植え付けた
なぜ、日本に資本主義が根付いたのでしょうか。ある研究会で長幸男さん(元東京外国語大学学長)の渋沢栄一に関する発表を聞きました。渋沢が将軍徳川慶喜の弟・昭武に随行してパリ万国博覧会へ行き、フランスの資本主義の発展に大変なショックを受けて帰国したという話です。これを聞き、もしかしたら渋沢は案内役で銀行家のフリュリ・エラールを介して、第二帝政期(ナポレオン3世の時代)に支配的だったサン=シモン主義というある種不思議な資本主義を学び、日本に植え付けたのではないかという、一つの仮説を立てました。
サン=シモン主義とは--。サン=シモン伯爵はフランス革命に失望し、アダム・スミスのレッセフェール(自由放任主義)では貧富の差が拡大するだけだと考えた揚げ句に、全ての支配権を働かない人間(富を生まない貴族や官吏など)から働く人間(富を生む労使)に与えよ、と主張しました。平等な社会を築くことを目的としていることから共産主義と同じように見えますが、異なります。今ある小さなパイを平等に切るのではなく、パイ自体を大きくしつつ平等に分ける工夫をすることが大事だと主張したのです。
重要な概念は流通です。お金が事業を志す人に回ることで富が生まれます。流通には、次のものが必要です。まずお金を集めて事業家に貸す銀行。当時、フランス金融界を支配していたロスチャイルド銀行はヘッジファンドのようなものであり、ベンチャーキャピタルが存在しませんでした。次に株式会社という制度。そしてヒトとモノを動かすための鉄道、海運です。さらにイギリスにあってフランスになかった「競争精神」。これを育成するため、万国博覧会を開催して出展品を金銀銅メダルで評価したわけです。
ナポレオン3世は獄中でサン=シモンの著作を読んで共鳴し、後に大統領になり皇帝になると、サン=シモンの弟子たちを全面的に登用しました。銀行家のペレール兄弟にはクレディ・モビリエという銀行を許可し、鉄道、海運、株式会社などを次々と実現・制度化していきました。皇帝になった1852年からわずか15年間で、イギリスをしのぐ世界最高の資本主義国を出現させました。
ちょうどそこへやってきたのが渋沢でした。見るものが全て珍しく、エラールを通じて片っ端から吸収していったのでしょう。そこで、もしエラールがペレール兄弟系、つまりサン=シモン系の銀行家だったとしたら、冒頭でお話しした渋沢がサン=シモン主義を学び、日本に移植したという仮説が証明されます。しかしエラールはペレール系ではなく、その敵のロスチャイルド系のソシエテジェネラル銀行系列でした。
子孫に話を聞くなどして調査を続けたところ、次のことが分かりました。サン=シモン主義者は1832年に弾圧を受け、バザール世派と神秘的・宗教的色彩の強いアンファンタン派に二分され、アンファンタン派はロスチャイルド系のソシエテジェネラル銀行と結びつきましたが、結局サン=シモン主義を貫きました。そうであれば、エラールがソシエテジェネラル銀行系列であっても、渋沢がサン=シモン主義を学び日本に定着させたという仮説も一応成り立ち得ます。
未熟だった経済人の倫理観を論語に求めた
渋沢が帰国後、どのように日本に資本主義を根付かせたのでしょうか。渋沢の優秀さは薩長政権にも伝わっていたため1869(明治2)年、大隈重信にスカウトされます。このとき、大隈の下にいたのは伊藤博文、井上馨ら日本を背負って立つ有能な人たちで、築地の梁山泊と呼ばれた大隈重信邸で議論を戦わせていました。
渋沢は民部省改正掛に配属されて、株式会社や郵政制度を創設、度量衡を改正し、税制をつくり、関税率を制定するなど日本の制度的改革をほとんど独力で進めました。しかし経済に疎い大久保利通と衝突して4年あまりで辞めてしまいます。
渋沢は、私人となって全国に商業を興すため、商人たちに商業道徳を植え付けることに力を注ぎました。自ら模範を示すために第一国立銀行を設立し、多くの株式会社をつくりました。銀行券、株券を発行するための洋紙が必要になり王子製紙を創業し、日本の産業を農業から工業へシフトさせるために大阪紡績(現東洋紡)などもつくりました。
倫理観を持った資本家・経済人を育てるために、現在の商工会議所である商法会議所、投機の精神を重んじて証券取引所の前身となる米の取引所、商業人を育てるための東京商科大学(現一橋大学)を創設しました。
渋沢は倫理観の基をどこに求めたのでしょうか。それは、父にたたき込まれた論語でした。論語を商業人である自分とどう関係づけたのでしょうか。ヒントはフランス滞在時代にありました。昭武の指導係としてビレット大佐という軍人が付いていたのですが、後はエラールを同格の人間として扱っていました。
二人はいわば、武士と商人という立場です。論語には、本当に武士が上、商人が下と書いてあるのか疑問を持ちました。そこで渋沢は二松学舎大学をつくった三島中洲先生に付いて、論語を学び直しました。すると論語も適正な利潤を認めていることが分かり、『論語と算盤』を書き上げたのです。自分の利益と全体の利益の関係をしっかり理解することが大事で、長くもうけようと思うのなら、一度の大もうけを狙うなと結論付けました。
彼の視点は正しく、たとえ世界中にむき出しの資本主義が広がったとしても、最終的に勝利するのは、渋沢の『論語と算盤』という日本的資本主義だと思います。
*本原稿は、2018年3月15日、「日本商工会議所第127回通常会員総会」で行われた鹿島茂さんの講演内容をもとに構成しています。
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