御菓子司 松月堂
長崎県佐世保市
一旗揚げるために佐世保へ
明治22(1889)年に大日本帝国海軍の軍港が置かれ、現在も海上自衛隊の基地がある長崎県佐世保市で、松月堂は100年以上にわたりカステラや丸ぼうろといった地元の銘菓をつくり続けている。初代の池田松吉が和歌山県から佐世保に移り住み、明治38(1905)年に菓子店を開いたのが始まりである。当時、軍港の佐世保は日露戦争の特需景気に沸いていた。
「池田松吉は私の曽祖父で、和歌山で廻船(かいせん)問屋に勤めていました。仕事柄、海軍や佐世保と縁があったようで、定年でもらった退職金で佐世保に土地を買い、菓子屋を始めたのです。定年といっても、あの時代ですから40歳前後だったと思います。佐世保で一旗揚げようと決意して始めたのでしょう」と、四代目の池田育郎さんは言う。
初代は、まずは海軍から軍艦上で残ったご飯を安く買い上げ、それで「おこし」をつくって販売していた。それまでの海軍との付き合いで、船内でおひつのご飯がたくさん残っていることを知っていたのである。そのようにして海軍との関係を深め、資金を貯めて、カステラや丸ぼうろをつくり始めた。
「シャレですが、〝おこし〟で店を起こしたと言っています(笑)。カステラや丸ぼうろは総称で南蛮菓子といい、発祥は佐世保の隣の平戸です。その土地柄を生かし、そういうお菓子をつくり始めたと聞いています。販売先は主に海軍の上層部で、海軍の軍人は海外経験者が多く、舌が肥えた人が多かったというのもあるかもしれません。当時、お菓子は高級品で、贅沢品としてのマーケットがあり、そこに目をつけたのでしょう」
佐世保の納税額トップ10に
佐世保の海軍基地の上層部は東京から来た人が多く、長崎のカステラや丸ぼうろは珍しがられた。また、戦争による特需が続いていたこともあり、松月堂は順調に販路を拡大していくことができた。
「大正から昭和にかけては石炭産業が盛んになり、佐世保周辺の炭鉱に支店を設けて販売を始めました。全国的に甘いものの需要が伸びていくなか、大手菓子メーカー製品の卸も手掛けるようになり、従業員も50人くらい抱え、佐世保市内の納税額でトップ10に入るような会社にまで成長しました」
しかし、第二次世界大戦中は菓子の材料を仕入れることができず、収入を得るために佐賀の有田焼や佐世保周辺でつくられる三川内(みかわち)焼などの陶器を販売。終戦後もすぐには元に戻らず、野球用品を販売してなんとかしのいでいたこともあったという。
その後、朝鮮特需で佐世保の基地がまた活気づき、商売も食糧事情も元に戻ってきたことから、再び菓子づくりに力を入れていった。日本の造船業が世界一だったころは、佐世保にも造船工場があったことから、まちはその恩恵も受けていた。そのような好景気がオイルショックまで続いた。
「佐世保は日本の縮図みたいなところで、戦争によって興り、戦争によって発展もしたし、大打撃も受けた。その後の経済発展もそうです。うちはそこにくっついて商売してきたので、時代の流れに翻弄(ほんろう)されながらも、なんとか知恵を絞って生き残ってきたのです」
後を継いで地域に恩返し
松月堂では代々、当主は店の経営に専念し、菓子づくりは職人に任せている。四代目で現社長の育郎さんも大学を卒業してから専門学校で経理を勉強し、その後は福岡県の菓子店に修業の形で就職。営業や販売を担当して仕事を学んでから、店に戻ってきた。
「子供のころに親から後を継げと言われたことはないのですが、学校や近所では『四代目くん』とか『松月堂くん』と呼ばれていました(笑)。だから自然と、そうなるんだろうなと思っていましたね。うちは地域の皆さまからの恩恵を受けてここまできたので、大人になってからは、自分が後を継いで恩返ししようと思っていました」
先代は学者肌で商売にはあまり向いていなかったため、新しいことをせず堅実な商売をする守り型のタイプだったと育郎さんは言う。その先代が10年前に病気で亡くなり、育郎さんが四代目を継いだ。
「無駄な人員の削減など、父の代のときにはできなかったことを、代替わりしてから始めました。それでなんとかこの10年間やってきましたが、これも父が堅実に商売をやって土台をしっかり守ってくれたからできたことだと思います。私も、新商品を出したり味を変えたりするのではなく、質の高いお菓子を質の高い接客でお出しする、昔ながらのまちの和菓子屋として、これからも続けていこうと思っています」
まちの和菓子屋の菓子は、その地域の味でもある。松月堂はこれからも、地域の人が親しんできたその味を守り続けていく。
プロフィール
社名:御菓子司 松月堂(しょうげつどう)
所在地:長崎県佐世保市上京町5-6
電話:0956-22-4458
HP:https://www.showgetsudow.co.jp/
代表者:池田育郎 代表取締役
創業:明治38(1905)年
従業員:5人
※月刊石垣2021年4月号に掲載された記事です。
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