長引くコロナ禍はいまだ収束が見通せず、景気回復まではまだまだ厳しい状況は続くという予想も出ている。しかし、苦境の時ほど経営者のモチベーションが重要になってくることも事実だ。そこで、厳しい状況下にも負けない強さとしなやかさを備える経営で従業員を守り、業績を上げ続ける女性経営者が持っている〝こだわり〟に迫った。
“高崎発世界へ”に照準を合わせ変革DNAを継ぐ精密機器加工技術
製造業の女性従事者比率は中小企業では42・5%と大企業の22・9%より高い(経済産業省調べ)。だがその多くが衣服や繊維関連で、精密機械加工分野ではまだ少ない中、共和産業の三代目で代表取締役社長に就いたのが鈴木宏子さんだ。思い切った業態変革を繰り返し、事業を発展、拡大させる経営者のDNAを受け継いで、鈴木さんも大胆な戦略に打って出る。
商社から製造業へシフト 75年超の歴史は変革の連続
群馬県には、基幹産業である自動車をはじめ航空機、医療機器の精密部品メーカーが数多くある。その1社、共和産業は高精度切削加工、試作開発を得意とする企業だ。1946年に創業し、鈴木宏子さんは2001年に三代目に就任した。現在の主力事業は、自動車エンジンなどの部品の開発試作で、ロケットや航空機関連、液晶・半導体関連部品の開発試作も手掛ける。国内のほとんどの自動車メーカーと取引があり、フォーミュラ1(F1)やインディカーなどのレース向けエンジンの部品開発も担当する。
だが、これらはここ10年の業績で、鈴木さんが社長に就任して以降、集中的に経営資源を投じて拡大を図ってきた分野である。同社は「創業の連続」が一貫した経営テーマで、鈴木さんもこの起業家精神を受け継いでいるのだ。
「時代のニーズに応じて変革しながら事業を継続、拡大してきた歴史があります。創業者である祖父は元銀行員で、退職後に友人の都内の軍需工場に出資して、その経験を生かして戦後、故郷の高崎市に帰り、商社として刃物や機械設備の販売を始めた経歴を持ちます」
商社からのスタートだが、8年後の1954年には製造部門を立ち上げ、小さな工場から量産できる体制へと規模を拡大していく。これに75年に就任した二代目が思い切った一手を投じた。主力事業である商事部門を他社に売却し、製造業一本へと舵(かじ)を切るのだ。自動車部品の量産と同時に、専用工作機械メーカーとして最先端の高機能機を自社で設計、製造、販売する体制を整える。
「製造を盤石なものにしていきましたが、途中、72年のオイルショック時にはたばこの自動販売機やバスの料金箱など、生き残りを懸けていろいろ手掛けたようです。でも、この経験がさらに柔軟で多彩なものづくり文化を育んでいったと思います」と鈴木さん。
二代目が社長就任時に設立した専用工作機械部門は、84年には専用機工場を建てるまでに成長。事業が勢いづく翌年の85年、当時米国に住んでいた鈴木さんは呼び戻されて入社するのである。
ロックに明け暮れる米国生活から入社へ
「文系出身で製造業のことはさっぱり分からない状態で入社しました」と苦笑する鈴木さん。姉妹二人の長女だが、家業を継げとは言われずに育った。10代の頃は洋楽のロックに夢中になり、当時ロック全盛の米国に留学すると、夜な夜なライブハウスに通い詰めたという。大学では米国史を専攻していたが、それでは現地での就職は難しい。
当時、日本の大手企業の若手社員がMBA取得のために渡米する傾向があると耳にすると、鈴木さんもビジネス・スクールでの専攻を経営学と会計学に変更して、ロサンゼルスの監査法人に就職を決める。「動機がロックで不純」と笑うが、大学卒業後も米国生活を謳歌していた鈴木さんに、父親から呼び出しがかかったのは難易度の高い米国公認会計士の資格取得を考えていた時期だ。受かれば米国、不合格なら帰国という条件で試験に臨むが、結果はあえなく後者となる。
「散々好きなことをさせてもらった手前、従わないわけにはいきません」と米国、いやライブハウスに後ろ髪を引かれながら、帰国したのである。
だが、覚悟を決めた鈴木さんの気持ちの切り替えは早かった。入社して担当したのは帳簿付け。同社は当時技術力で群を抜いていたが、財務面には課題があった。それを立て直したのが鈴木さんだ。資金を投じた工作機械の専用機部門が経営を圧迫していることを二代目に提言する。当時、国内だけではなく海外の幅広い分野のメーカーへも納入し、高く評価されていた部門だけに、苦渋の選択だが、先代は撤退の英断を下す。こうして鈴木さんは入社2年目で会社に変革を起こすのだが、それはまだまだ序章に過ぎない。
新規事業開拓の鉄則は〝ジャンプせず〟水平展開
専用機械部門は撤退したものの、そこで培った取引先とのパイプや得られた新たな加工ニーズによって、勢いを増した部門がある。81年に設立した開発試作部門だ。大量生産とは対極で、多種多様な顧客からのニーズには臨機応変な対応が求められる。だがその分、技術力が磨かれ、業界の最先端の情報もキャッチできた。主力事業へと成長する中で見舞われたリーマンショックが、さらに変革へと追い討ちをかける。
「量産部門の75%の受注が一気になくなりました。開発試作部門の受注は、減りはしたものの黒字化。量産から多品種少量生産へシフトするしかないと、先代の意には反しましたが、断行しました」
これは大手自動車メーカーとの量産契約の返上を意味する。大手企業との契約は経営の安心材料になりそうだが、技術革新が目覚ましく産業そのものが過渡期である自動車産業は違った。「量産=安心」ではない。しかし、一方の開発試作部門は案件が立ち消えればそれまでのため、取引先を増やすべく新規顧客の開拓が不可欠となる。「年に1社」を目標に、鈴木さん自らも全国を回り、営業スタッフらとともに地道に活動を続け、約20社まで数を増やしていった。
加えて量産契約の返上で大手自動車メーカーとの新たな連携も生まれた。ポールジョイント技術の無償供与を機に60年代から取引のある本田技研工業が、F1部門やアフターマーケット(自動車の修理、改造)市場での開発協力を依頼してきたのだ。
「弊社の歴史は変革の連続ですが、イチかバチかの博打(ばくち)ではなく、加工技術を水平展開して新分野へ参入してきました。『ジャンプしない』が、創業時から続く弊社の鉄則です。多品種少量生産も、80年代のバブル期に3年に1回のペースで車が買い替えられ、それも人とは違う車のニーズが高かった時代に、技術が磨かれた経緯があってこそ。専用工作機械メーカーとして国内外からの受注があり、外交販売のノウハウも先代の時代に築かれていたから私の代でも成し得たものです」
ベンチャーマインドとマルチタスクで突き進む
技術を水平展開しながら、ビジネス形態も変えた。従来型の下請けではなく、分野の異なる中小企業と連携したネットワーク型の素材加工一貫の請負ビジネスに移行していく。その文脈から2021年7月に設立した一般社団法人「群馬積層造形プラットフォーム」の代表理事も引き受ける。日本ミシュランタイヤと群馬県7社で金属用3Dプリンターを活用して、人材育成と製品の高付加価値、新分野の研究開発を進める。
「製造業は女性が少なく、どこに行っても良くも悪くも目立つ存在です。でも、女性だからと負い目を感じたことはなく、むしろ研修や出張で男性は大部屋なのに、私だけ個室を用意してもらうなど、気を遣ってもらうことの方が多いですね」と穏やかに語る。
国内では男女比が目立つ業界だが、鈴木さんはどこ吹く風で「あえて性別で語るなら、女性は一度に複数のことをこなすマルチタスクが得意。コロナ禍、アフターコロナ時代にマルチタスクは経営者に必要なスキル」と説く。
海外展開も試作品の開発をきっかけに、14年、NCネットワークから北米展示会に誘われて参画。すると米国のビッグ3の自動車メーカーに関心を持たれ、現地法人があれば受注の可能性があることを知り、16年にはミシガン州に現地法人を設立する。さらにコロナ禍で米国内の動向を見て21年8月に同州のビッグ3の一次サプライヤーである部品製造会社を約3億円で買収する。海外初の生産拠点を確保し、年間売上額2億円を3年以内に2倍の4億円にするとの見通しを立てた。一方で、海外展開と並行し、国内では医療分野への進出を図り、脳外科内視鏡手術用の精密鉗子を開発する。
「医療分野は地元の群馬大学や日高病院と連携して進めています。医療ビジネスは細分化していて大手企業が参入しにくい領域。開発した鉗子は21年8月には北米最大の医療展示会に初出展して海外ニーズありと確信しました。ゆくゆくは技術をデジタル化して量産体制を確立していく方針です」
こうした業績が広く知られるようになり、「はばたく中小企業・小規模事業者300社」や「地域未来牽引(けんいん)企業」などにも選ばれる。それに甘んじることなく、全社一丸となった品質や生産体制、職場環境の改善にも取り組む。グローバルプレーヤーとして成長する今、ベンチャー精神とマルチタスクを掛け合わせて、地元、高崎から世界市場を狙う。
会社データ
社名:共和産業株式会社(きょうわさんぎょう)
所在地:群馬県高崎市島野町890
電話:027-352-1631
HP:https://kyowa-industrial.jp/
代表者:鈴木宏子 代表取締役社長
従業員:111人
【高崎商工会議所】
※月刊石垣2022年4月号に掲載された記事です。
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