金物商から建設総合商社へ
山形県北部の海沿いに位置し、江戸時代には北前船の西廻海運の起点となる港町として栄えた酒田市で、建設総合商社の加藤総業は120年以上にわたり事業を続けている。初代・加藤安太郎が明治32(1899)年に金物屋を開業したのが始まりである。
「私の曽祖父である初代は実家が本屋で、加藤家には婿として入ったと聞いています。当時、酒田には江戸時代から続く本間家という豪商がいて、地域経済の中心でした。おそらく初代は本間家に勤めていたのでしょう。その関係から、本間家の許可を得て金物商の商売を始めたのだと思います。今でいうホームセンターのようなものです」と、創業から数えて四代目の加藤聡さんは言う。
戦前にセメント会社の特約店となると、戦後になって後を継いだ二代目安太郎の時代に株式会社加藤安太郎商店を設立し、建設資材を多く扱うようになっていった。戦後に入ると建物が木造から鉄骨造や鉄筋コンクリート造に変わっていき、建設分野での取り扱い資材が増えていった。
「金物商の時代が長く続き、父が昭和46年に三代目を継いだころは、ホームセンターと建設資材卸売業の兼業でした。しかし、建設資材の取り扱いが増え、私が継ぐまでの30年間で大きく会社は成長して、売り上げを100倍近くまで伸ばしました。世の中の成長とともに会社も成長したのです。そしてこれは、商売では謙虚な姿勢を持ち続け、お客さまや取引先との信用を大切にしてきた結果だと思います」
建設不況を経験し新規事業へ
三代目が社長に就任するとともに、社名を現在の加藤総業に変更した。加藤さんは東京の大学を卒業後、大手非鉄金属メーカーに就職。そこで10年勤めた後、平成7年に酒田に戻った。
「大学卒業時に父に頼めばどこかの会社に入れたかもしれませんが、自分の力で就職しようと、普通に就職活動をしました。そして、その会社での10年間で、私の社会人としての基礎ができました。たくさんの尊敬できる方が、仕事に対する考え方だけでなく、人生についても教えてくれました。正直、地元に帰らずにそのまま勤め続けたかったほどです」と加藤さんは笑う。
加藤さんが地元に戻ったころは、ちょうどバブルが崩壊して間もない時期で、建設不況から会社の業績が右肩下がりに入るときだった。
「一言でいうと大変でした。会社がつぶれるとは思っていませんでしたが、運転資金のために大きな借金もしましたし、リストラもせざるを得なかった。社員に賞与も長いこと出せませんでした。なんとか乗り越えましたが、将来的に建設業がなくなることはなくても、バブルの時代に戻ることはもうないし、いつまた業界に逆風が吹くか分からないと感じていました」
このまま建設資材だけを扱っていたのでは厳しいと考えた加藤さんは、新規事業を始めることを考えていた。
「居酒屋などは社員教育にもいいんじゃないかと、本気で考えていた時期もありました」
風力発電が主力事業に
そして、加藤さんが12年に社長を継いでから間もなくして、酒田市の沿岸部で風力発電事業を共同運営する地元パートナー企業を探していた大手企業数社から、加藤総業に誘いの声が掛かった。
「このとき、一緒にやりたいと思える会社と出合えたことから、この事業に乗り出しました。風車の建設資材に自社の鉄鋼やセメントを使えるので、一石二鳥でした」と加藤さんは当時を振り返る。
21年に最初の風力発電所が運転を開始して以来、数年ごとに新たな発電所を開設。今では10基の風車で年間約5万3000メガワット時(一般家庭の1年間の電力量換算で約1万33000戸分)を発電しており、それ以外に管理サポートをしている風車が10基ある。さらに、公共プールの指定管理業務や空き家対策サポート、そして液体ガラスや非常食の販売という、新たな事業にも取り組んでいる。
「これらの新事業の多くは社員からの提案で、社内ベンチャーをつくって運営しています。新たに始めた風力発電が、今は会社を支える事業になっているのを社員たちが見て、新事業のアンテナを張るようになった結果です。これまで120年続けてきて、100年前の商売を今は一つもやっていないわけですから、これからも変わることを恐れず、新たなことに挑戦するスピリットを大切にしていきたい」と加藤さんは力強く語った。
日本海からの強い風を受けた風車が発電するように、加藤総業も時代の風を捉えて新たなビジネスに取り組んでいる。
プロフィール
社名 : 加藤総業株式会社(かとうそうぎょう)
所在地 : 山形県酒田市東町1-1-8
電話 : 0234-23-5411
代表者 : 加藤聡 代表取締役
創業 : 明治32(1899)年
従業員 : 約50人
【酒田商工会議所】
※月刊石垣2023年3月号に掲載された記事です。
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