事例2 生産量日本一の「とうがらしの郷」に新たな歴史の1ページを刻む
吉岡食品工業(栃木県大田原市)
日本の食生活のなかでも、トウガラシは馴染み深いスパイスだが、国内消費の大半を輸入品が占める。他方、1955〜60年ごろ、トウガラシの一大産地として隆盛を極めた栃木県大田原市が、V字回復を狙って動き出した。歴史の発端である吉岡食品工業とともに、まちぐるみでトウガラシの新たなムーブメントが起きつつある。
輸入トウガラシ5000tを集積
日本でトウガラシの栽培が盛んだったことを、どれくらいの人が記憶しているだろうか。1960年代ごろには年間約7000tの生産量があり、それを牽引(けんいん)していたのが栃木県大田原市だ。そして、同市のトウガラシの歴史を語るうえで欠かすことができないのが吉岡工業食品の創業者、吉岡源四郎さんである。
「創業は23年。東京の武蔵野周辺で、カレー用のトウガラシ商品の製造・販売をしていました。当時、カレーは高級メニューで、輸入スパイスも高額でしたから、国産スパイスの転換としてトウガラシ栽培が国を挙げて進められていました。武蔵野は、北原白秋が和歌に詠むほど有名なトウガラシ産地でしたが、創業者は耕作地拡大と品質改良に限界を感じ、拠点を移します。それが大田原です」
2015年6月に3代目代表取締役に就任した吉岡博美さんは、同社の歴史を語り始めた。当時、大田原市は栃木県の行政、経済の中心地であり、農地開拓による新たな農作物の栽培を模索していた。輸出農産物として成長しつつあったトウガラシの栽培を誘致すれば、外貨獲得のチャンスを見込めると踏んだ県のバックアップもあり、1941年に移転して大規模な栽培普及に乗り出した。
そして、55年、ついに品種改良に成功し「栃木改良三鷹(さんたか)」(通称、栃木三鷹)が誕生する。強い辛味と色鮮やかなのが特徴で、収量が多く、形が均一、収穫しやすく、保存も利く流通のしやすさで、たちまち市場に広がった。50年の朝鮮戦争勃発で、朝鮮国内のトウガラシの生産量が激減すると、「トウガラシがドルに変わる」と輸出農産物としての価値を急速に高め、国内消費量2000tに対し、輸出用に5000tが生産されるまでに。そして吉岡食品工業が輸出トウガラシ加工の指定工場として頭角を現していった。
トウガラシの〝名品〟が地元の飲食店で続々と誕生
しかし、国力が付けば貿易の主流は農作物から工業製品に変わっていくのが世の常だ。農家の若者らは都会の工場へ流れ、働き手不足と収入減、そして73年の円変動相場制以降、市内の風景からトウガラシの姿が消えていく。再び関心が向けられるのは、それから時を経て2003年、大田原市観光協会が「食」をテーマにまちおこしを企画してからだ。
「大田原市がトウガラシの郷(さと)だったという認知度は、市内の30代以下で約20%に落ち込んでいました。それに栽培していたのが輸出向けトウガラシなので、食文化としても根付いていない。そんな一抹の寂しさもあって、観光協会からトウガラシに関する知識やノウハウを教えてほしいと連絡があったとき、喜んで関わることにしたのです」
後に観光協会の会長を務める吉岡さんは、同協会が結成した「食の開発プロジェクトチーム」に加わり、地元の飲食店の協力を得て、トウガラシのラーメンやどら焼き、切り餅や蜂蜜など28店舗約50種類のトウガラシの〝名品〟誕生に関わっていく。売り上げの30%を占める人気商品が生まれた店舗もあるというから、成果は大きい。
観光資源が少なく、観光客入り込み数も県の最下位にあった大田原市のこうした取り組みは、新聞や雑誌などのメディアにも紹介され、県や市の補助金も交付されて06年には「大田原とうがらしの郷づくり推進協議会」が発足。取り組みはいよいよ第2ステージへと進んだ。そして着手したのが、トウガラシの生産農家の拡大だ。
生産量25tから100tへ工業化・機械化を促進
「大田原商工会議所内に観光協会があって、農業は商工会議所の管轄外です。協議会として独立したことで、トウガラシ、それも栃木三鷹を栽培する農家を増やす活動ができます。生産されたトウガラシは、市場に出回っているトウガラシよりも弊社が高値で買い取るようにしました」
吉岡食品工業は、日本の輸出品が農産物から工業製品にシフトすることを見越して、1975年ごろからすでに中国・天津でのトウガラシ栽培に舵を切っていた。天津でつくられる栃木三鷹だから「天鷹」というブランド名で展開していたが、地元、大田原市でも少量ながら栃木三鷹の種取りは続けていたという。その種子で国産化を目指し希望者を募ったところ、初年度の2006年には3軒の農家の手が上がった。減反政策で、農家は米の代替え作物を探しており、1反(約10a)で20万〜30万円とコメより3、4倍の収入を見込めることが口コミで広がり、11年3月まで倍々で数が増えて、63軒にまで伸びた。だが、同年3月の東日本大震災による東京電力福島原子力発電所の放射能汚染の影響で、生産の中止、苗の破棄を余儀なくされ、13軒にまで激減してしまう。
だがプロジェクトを辛抱強く続け、風評被害が一段落したことで、勢いを盛り返し、20年には190軒に達した。
「収入面もそうですが、ベテラン農家の方々の多くが、赤い絨毯(じゅうたん)のようなトウガラシ畑という原風景を記憶されていました。あの風景をもう一度と、肯定的に受け止められたことが大きいのだと思います」と吉岡さん。今後は、トウガラシの収穫の〝手間〟を省く機械化を進め、1軒の限界栽培面積10aを、30〜40aにまでは可能にしたいと前向きだ。
「協議会が発足して14年目にして、生産量日本一を奪還しました。でも生産量は20tベース。これを工業化で100tにしたいです」と、夢は大きく広がる。
会社データ
社名:吉岡食品工業株式会社(よしおかしょくひんこうぎょう)
所在地:栃木県大田原市山の手2-16-10
電話:0287-23-5555
代表者:吉岡博美 代表取締役
従業員:45人
※月刊石垣2020年5月号に掲載された記事です。
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