山陰堂
山口県山口市
妻の考案した菓子が名物に
京都を模したまち並みから、室町時代には「西の京」と呼ばれ栄えていた山口市。このまちに山陰堂はある。創業は明治16(1883)年、当時から店の名物としてつくり続けている「名菓舌鼓」は、昔も今もすべて手づくりだ。創業者の竹原彌太郎は、津和野藩(現在の島根県津和野町)の食客として代々暮らしてきたという。
「もともと今の広島県竹原市の武家でしたが、戦国時代に戦に敗れて津和野に逃げてきたそうです。そして武士の時代が終わり、彌太郎は妻のマツと山口に出てきて、菓子屋を始めました」と、七代目社長の竹原雅郎さんは言う。社長としては七代目だが、兄弟が継いだりしているため、初代から数えると、世代的には四代目に当たる。
「山口は山陽ですが、山陰の津和野から来たので店名を山陰堂としたようです。店の前の商店街も以前は街道で、通りを中心にまちが栄えていました。しかし彌太郎はもともと武士ですから、菓子などつくれない。一方で妻のマツには茶の心得があり、茶席の菓子を自分でつくっていました。そこでマツが新たな菓子を考案。それがうちを代表する菓子となったんです」
求肥(ぎゅうひ)と白あんでつくられるお菓子は「舌鼓」と名付けられた。大正に入って、地元山口市出身の寺内正毅総理大臣がこの地を訪れた際にこの舌鼓を食べたところ、その味をいたく気に入り、名前に「名菓」を加えたらいいと言ったことから「名菓舌鼓」となった。
「総理大臣に言われたものの、実はしぶしぶ付けたようです。三代目はそこまでの菓子と思っておらず、名菓と名乗るはおこがましいと。なので、名前は名菓舌鼓ですが、包み紙などには名菓の字を小さい字で入れています」
駅での販売が大当たり
店が大きく発展したのは、昭和に入って四代目が後を継いでからだった。四代目は東大を出て銀行に入り、コロンビア大学に留学していたこともあったという。
「四代目は私の祖父に当たります。ほかに店を継ぐ人がいないから戻ってこいと言われ、東京から戻ってきたそうです。戻ってきてからは、あれもしようこれもしようと次々とアイデアを出し、新しいことを始めていきました」
一番の転機は、山口駅で和菓子を売り始めたことだった。当時、駅では駅弁とお茶くらいしか売られていないことに目を付け、四代目は駅に掛け合い、列車が駅のホームに着くと、駅弁と同じスタイルで乗客にみやげ物として和菓子を売り始めた。
「これで売り上げがぐんと伸びました。また、名菓舌鼓が山口市の銘菓として知られるようにもなりました」
戦時中は物資不足のために休業を余儀なくされた。しかし、戦後から数年たって店を再開した。 「再開に時間がかかったのは、正規に仕入れた材料以外は使わないと決めていたからです。終戦直後は闇市の材料を使ってつくるのが当たり前でしたが、それはやらないと。なので、正規のルートで材料が入ってくるようになるまでは休業を続けました。その間は大変苦しかったと聞いています」
当主は営業と経営に専念する
七代目の竹原さんは広島の大学を卒業後、そのまま広島で就職。平成10年に戻ってきて、父が六代目を継いでいた店の家業を手伝うようになる。そして23年、社長を継ぐこととなった。
「七代目は私でなくても従兄弟なら誰でもよかった。私自身もほかの誰かに継いでもらいたかったのですが、手を挙げる人がいない。まあ、私は子どものころから店で父の姿を見ていたので、流れからして次は自分かな、とは思っていましたけどね」と竹原さんは笑う。
山陰堂では、代々の社長はすべて経営者。和菓子をつくる職人は別にいる。
「とはいえ、六代目の社長は工場で菓子づくりをかじっているので、職人と対等に話もできます。私も工場の手伝いをしてきました。その上で当主が営業や会社経営に専念してきたからこそ、店がここまで大きくなったのだと思います」
竹原さんは、先代が残してきたものを、これからいかに工夫して広めていくか―。これに重点を置いているという。 「お菓子はすでに数多くあるので、新商品はつくりません。新しいことも始めません。例えば、ネット販売などを始めてそのコストを価格に転嫁してはお客さまに申し訳ない。これからも地元のお客さまを大切にして、観光客の方々にもお土産としてお買い求めいただけたらと思っています」
来年は明治維新150周年、かつての長州藩・山口県にも数多くの観光客が訪れるだろう。そして帰途に就く日には、その手に山陰堂の名菓舌鼓があるかもしれない。
プロフィール
社名:株式会社山陰堂
住所:山口県山口市中市町6-15
電話:083-923-3110
代表者:竹原雅郎 代表取締役
創業:1883(明治16)年
従業員:35名
※月刊石垣2017年10月号に掲載された記事です。
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