新里酒造
沖縄県沖縄市
つくった泡盛は王宮に献上
沖縄最古の蔵元として泡盛の製造を続けている新里(しんざと)酒造は、弘化3(1846)年の創業である。沖縄諸島を統治していた琉球王国がこの年、王宮がある首里の3地域に住む30人の職人に泡盛づくりを許可。そのうちの一人に選ばれたのが初代・新里蒲(かま)だった。
「創業といっても公務員のようなもので、つくったお酒はすべて首里城に献上していました。当時、泡盛を飲むことができたのは王族や貴族、中国からの使節である冊封使(さくほうし)だけだったのです」と、新里酒造七代目の新里建二さんは語る。
創業から7年後の嘉永6年、ペリー提督率いるアメリカの黒船が那覇沖に来航。琉球王国に開港を求めた。「王府は交渉を断ったものの、一行を歓待しました。その際、シェリー酒に似た甘い香りの酒が振る舞われたとアメリカ側の手記に書かれています。もしかしたらそれは、うちがつくった泡盛の古酒(クース)だったのかもしれません」
明治4年の廃藩置県後、泡盛を王宮に納める必要がなくなり、一般にも売られるようになった。そして、大正13年、二代目の時代に那覇市若狭に工場を移転。泡盛の製造だけでなく、砂糖や石炭の売買など業務を拡大し、会社を大きくしていった。
「うちの屋号である『カネコウ』は、このころ付けられました。カネは大工道具の差し金(L字型の物差し)の〝カネ〟で、差し金は真っすぐ線を引くためのものなので、商売がぶれないようにという意味で付けられたようです。〝コウ〟は二代目の名前である康昌(こうしょう)から取りました」
下請けから独自ブランドへ
「戦争で全部失ってしまいました。戦争がなければ会社はもっと大きくなっていたと思いますが、戦時中に酒蔵は日本軍に接収されてしまい休業せざるをえず、貯蔵していた古酒も飲まれてしまいました。ほかの酒蔵も戦争で破壊されたため、百年以上保存してきた古いお酒はまったく残っていません」と新里さんは残念そうに語る。
終戦から8年後の昭和28年、四代目が那覇市内で事業を再開。しかし、一からの出直しだったため規模は小さく、つくった泡盛はほかのメーカーにすべて納めていた。
「当時、従業員は10人足らずで家族経営の工場でした。しばらくは下請けが続きましたが、そのうち卸先のメーカーが大きくなり、自分たちで十分な量の泡盛がつくれるようになると、下請けが不要になった。そのためうちの会社は、つくった泡盛を自分たちで売らなければならなくなりました」
新里さんの父親で五代目の肇三さんは、戦前から使っていた銘柄「琉球」と、沖縄の言葉で〝めでたい〟を意味する「かりゆし」銘柄で自社の泡盛の販売を始めた。販路開拓のために、飲食店を一軒一軒回って店にボトルを置いてもらっていったという。それから5年後の63年には、それまで泡盛工場がなかった沖縄市から誘致を受け、工場を移転する。しかし、当時の居酒屋などでは洋酒が人気だった上に、泡盛は大量生産が難しいという問題を抱えていた。
「後に六代目になる兄の修一が、沖縄国税事務所の鑑定官だったとき、新しい酵母を開発したのです。泡盛の製造過程で泡が大量に出るという、それまでの酵母の難点が解消され、仕込み量も増やすことができるようになりました」
この新しい「泡盛101号酵母」は、今は地元の組合で培養されている。そして、各泡盛メーカーで使われるまでに広まった。
泡盛ブームで県外出荷が増加
1990年代に入って起こった沖縄ブームに乗じて、泡盛も日本全国で人気となり、消費量が急激に増えていく。新里酒造でも、それまで県外への出荷数は全体の約2割だったものが、3割にまで増えていった。
「泡盛だけではなく、泡盛の製造過程でできる〝もろみ酢〟はアミノ酸やクエン酸が豊富で、健康飲料として売り出したところ、健康ブームに乗って流行しました。しかし、今考えたら勘違いしていました。ブームに乗って広がっただけで、本当の意味で泡盛の人気が出たわけではなかったのです」
泡盛業界全体は現在でも厳しい状態が続いているという。しかし、新里酒造では新たなタイプの製品を開発することで、それを乗り越えようとしている。
「今は泡盛ベースのリキュールに力を入れており、数字は伸びています。伝統的な技術は残しつつ、お客さまの好みの変化に合わせて商品も変えないといけませんから」
年月をかけて熟成させる泡盛の古酒は、貯蔵中に香り成分が減少する分、そこに少し若い酒をつぎ足し、香りの活性化を促すという。新里酒造も、新たな試みを加えながら、沖縄最古の蔵元として、さらなる発展に力を注いでいる。
プロフィール
社名:合名会社 新里酒造
所在地:沖縄県沖縄市古謝3-22-8(本社) 沖縄県うるま市州崎12-17(州崎工場)
電話:098-939-5050
HP:http://shinzato-shuzo.co.jp/
代表者:代表者 新里建二
創業:弘化3(1846)年
従業員:28名
※月刊石垣2017年5月号に掲載された記事です。
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