肥後象嵌 光助
熊本県熊本市
時代に合った商品づくり
日本三名城の一つとされ、江戸時代には熊本藩細川家の居城だった熊本城のふもとに、肥後象嵌(ぞうがん) 光助(みつすけ)はある。象嵌とは工芸技法のひとつ。肥後象嵌は、主要素材の鉄に純金や純銀を打ち込んで模様を描き出す肥後独特のもので、400年近い歴史を持つ。江戸時代には細川家の庇護(ひご)の下、象嵌師たちが主に刀の鍔(つば)や小柄(こづか)などに象嵌の装飾を施してきた。
「うちは江戸時代から鍛冶屋として鍔などを象嵌師に納めていましたが、自分たちでもキセルのような庶民的な物で象嵌をつくっていました。そして明治7(1874)年、私の曽祖父である大住伊吉が、光助という屋号で象嵌師として創業しました」と、4代目光助を受け継いだ大住裕司さん。
明治9年の廃刀令により鍔の需要がなくなり、多くの象嵌師たちが廃業する中、大住家は生き残った。「大住家が今まで残ってこられたのは、時代に合わせた、庶民が使う商品をつくってきたからだと思います。明治時代はキセルが多く、それからは花瓶や香炉、文鎮、昭和に入ると灰皿など、昭和30年代までは注文を受けてさまざまな物をつくっていました。象嵌の良さが分かるお客さまが全国にたくさんいたので、注文だけで生活が成り立っていたんです」
新たな試みにも挑戦
昭和30年代後半から40年代にかけて新婚旅行ブームが起こり、九州では宮崎を中心に多くの観光客が来るようになった。そこで需要が出てきたのが土産物で、肥後象嵌も熊本土産として売れるようになっていった。「土産物は主にペンダントやネクタイピンといった装飾品で、つくったそばから売れていく。新婚さんがタクシーで店に来て、数万円分のお土産を買っていくこともよくありました。そのころがうちのピークで、職人が15人はいました」
大住さんが後を継ごうと決めたのは、今から35年前、大学を卒業して東京の企業に就職した2年目のことだった。「それまで私は象嵌をやるつもりはまったくありませんでした。ところがスキーで骨折して長期入院することになり、会社に迷惑をかけるので、退職して家に戻ってきました。もしあのときけがをしなかったら、うちも父の代で廃業していたかもしれません」と大住さんは振り返る。それからは、象嵌の修業をするとともに、さまざまな団体に加入して人脈を広げ、営業として商品を売るようなこともやっていった。
「私の父がつくり、母が営業として日本中を回ったり、展示会を開いたりして商品を売っていました。私も母の姿を見て営業しながら、どのような商品をつくったら売れるのかを模索していました。そこで考えたのが、他業種との連携と新しい技術の導入でした。伝統を守るだけでは続けていくことが難しくなっていましたから」
ほかの業種との連携では、光助は43年前から万年筆メーカーのために万年筆に象嵌を入れたものをつくっていた。その肥後象嵌入り万年筆は、今年5月に行われた「G7伊勢志摩サミット」で、安倍首相から各国首脳らへの贈答品として選ばれている。また今では、デザイナーや彫金師などとのコラボにも取り組んでいる。
技術を継承する若者の育成を
「一方で、新たな技術の導入の面では、それでは肥後象嵌ではないといった非難も周囲から浴びました。たとえば肥後象嵌では鉄を使うところをチタンやステンレスにしたり、色は黒が基本ですが漆で赤や青などにしたりとか。先駆者は非難を受けるもの。その中で成功した人が残っていく。チタンやステンレスも、今では象嵌組合の人たちから認められています。やはりこのままでは生き残っていけない、若手が育たないということが分かってきたんです」
現在、肥後象嵌の職人は10数人しかおらず、高齢化が進んでいる。そのため肥後象がん振興会では、技術を継承する若者を育てようとしているところだという。若い人の発想や新たなものを取り入れる意欲を生かすためにも、伝統だけに縛られてはやっていけない。
「肥後象嵌の技術は弟子が継いでいくのが一番よい。ただ、今はどこも会社組織にしているので、弟子に会社の借金まで背負わせるわけにもいかない。私の息子は後を継ぐつもりはないようで、このままでは私の代で廃業です。それはあまり気にしていませんが、伝統工芸の伝承は技術だけの問題ではないのが難しいところです」
それでも今は、若い人たちが新たな素材で作品をつくったり、ブティックで販売したりと、いろいろなことに挑戦している。光助というブランドの将来は未確定だが、伝統という殻から飛び出した新たな肥後象嵌の形となるのは間違いなさそうだ。
プロフィール
社名:株式会社光助
所在地:熊本県熊本市中央区新町3-2-1
電話:096-324-4488
代表者:代表取締役社長 大住裕司
創業:明治7(1874)年
従業員:6名(うち職人4名)
※月刊石垣2016年11月号に掲載された記事です。
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