つた金
神奈川県横浜市
のり専門店として創業
のり問屋のつた金が横浜の地で創業したのは明治27(1894)年、横浜港に鉄さん橋(現在の大さん橋埠頭(ふとう))が完成した年だった。つた金の初代・出川金蔵は川崎出身で、一族は川崎で新田開発に携わる有力な一族だった。金蔵は若いころ、川崎の蔦屋という酒屋で奉公し、独立してのり問屋を創業した。屋号のつた金は、奉公した店と自分の名前を合わせたものである。
「のりは古くは朝廷に納める税の一つに含まれるほど貴重な食材でしたが、明治時代に養殖技術が発達し、庶民にも行き届くようになりました。私の曽祖父にあたる金蔵はそれに目を付けて、のり問屋を始めました」とつた金5代目の出川雄一郎さんは言う。「当時は東京湾ののりが主で、金蔵は品物をリヤカーに乗せ、得意先のおすし屋やおそば屋を回っていました」
明治・大正と食文化が発展していく中、のりの消費も増え、つた金も順調に大きくなっていった。だが、金蔵は56歳という若さで亡くなり、当時17歳だった長男の政雄が2代目として後を継ぐ。そして昭和6年、横浜に中央卸売市場が開場すると、つた金は市場近くに営業所を建て、これが現在のつた金の所在地となっている。
市場内にも販売店を設け、その後も商売は拡大を続けたが、戦争が起こる。横浜は空襲で多くが焼け野原になり、つた金の店も焼失していた。「ところが終戦後、2代目が店の焼け跡から金庫を見つけたんです。中にあったお金を元手に横浜の闇市で日用品を販売し、23年にはのり問屋を再開することができました」
倒産の危機を乗り越えて
再開からしばらくは商売が安定していたが、36年、今度は2代目が初代と同じ56歳という若さで他界してしまう。そして長男の誠一郎が3代目を継いだ。
「これが私の父ですが、継いだときはまだ24歳かそこら。5人兄弟のうちの3人が男兄弟で、父は二人の弟と協力し合って家業を続けていきました。その後は高度成長期の波に乗って、のりは贈答品としても人気となり、商売も大きく伸ばしていきました。私も子どものころ、忙しくなるとのりの箱詰めを手伝わされたものです」と出川さんは振り返る。ところが、好事魔多し。50年代半ば、3代目がサイドビジネスに手を出し、多額の借金を抱え込んでしまう。持っていた不動産を処分してもまだ足りず、新聞に「つた金倒産」というニュースが載ったという。
「当時私はまだ20歳前後で、東京ののり店に修業に出ていました。小さいころからお前はつた金を継ぐんだと言われて育ってきましたから、店がもう駄目だと聞き、涙が止まらなかった。そのときは自分が継ぐとか継がないとかではなく、どんな形でもいいからつた金を残したいという気持ちが強かった」と出川さんは当時の思いを語る。結局、債権者や銀行の理解と協力により店を継続できたが、その条件として3代目は社長から退き、これまで一緒にやってきた社長の弟が4代目に就任した。
「周りの方のご支援のおかげで店を閉めずに、今日まで商売をやらせていただいてきました。このことは決して忘れてはいけません」
新たな顧客の獲得を目指す
現在は出川さんが5代目としてつた金を切り盛りしている。以前の借金は返し終えたものの、景気の後退により商売は厳しくなってきているという。「お客さまが減り、市場全体が厳しくなっています。特に、いいのりを使っていただいていた江戸前のおすし屋さん、そば屋さんという二本柱のお客さまが激減しています。今、うちののりを一番使ってくださっているのは、横浜家系のラーメン屋さんです。なので、これからも新しいお客さまにもっといいのりをたくさん使っていただけるよう、新たな提案をしていかないといけません」
その一方で、市場周辺に高層・高級マンションが増えたことから、高くてもおいしいのりを求めてお店に来る客も増えてきた。これからはこういった消費者に向けても、のりのおいしさを伝えていく必要があると感じているという。
「私はこれまでのりが嫌いだという人に会ったことがありません。のりは単純な食べ物ですが、日本人に親しまれ愛され続けてきた食材です。それを扱わせていただくことができて本当に良かった。そして、うちの長い歴史を支えてくださったのは、これまで何十年とお付き合いいただいてきたお客さまです。長く商売してきたからこそ得られた信用・信頼関係を大切にして、これからも新たなことに挑戦していこうと思っています」
昔から値段があまり変わらないのりは、卵とともに〝物価の優等生〟と言われている。そんなのりのおいしさを、いま一度見直してみるべきかもしれない。
プロフィール
社名:株式会社蔦金商店
所在地:横浜市神奈川区栄町89
電話:045-461-0361
代表者:出川雄一郎 代表取締役
創業:明治27(1894)年
従業員:20名
※月刊石垣2016年8月号に掲載された記事です。
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