矢部屋 許斐(このみ)本家
福岡県八女市
お茶の将来性を予見し家業を転換
玉露の産地として京都、静岡と並び称される福岡県八女市。この地で茶問屋を営んできた矢部屋 許斐(このみ)本家は、初代の許斐甚四郎が宝永年間(1704〜10年)に近隣の山々で採れた茸(きのこ)や茶、木材などの山産物を取り扱う問屋を創業したことに始まる。屋号の矢部屋は、当時取り扱っていた山産物の採れる場所の地名から名付けたと伝わっている。
幕末に日本が開国し、諸外国との貿易が始まると、長崎から日本茶の海外への輸出も開始される。すると、お茶の需要が飛躍的に増え、その将来性を予見した八代目寅五郎は慶応元(1865)年、矢部屋をお茶に特化した製茶問屋として生まれ変わらせる。許斐健一さんは、一昨年に店の後を継ぎ、十四代目当主となったのを機に店の歴史を紐解き直し、創業年をあらためたという。
「以前はこの慶応元年を当店の創業年とし、寅五郎を初代としてきたのですが、歴史をさかのぼっていくと、山産物商時代からお茶も扱っていたことが分かりました。そこで、自身のルーツを確立するためにも、創業年を山産物商を始めた宝永年間にあらためました」
順調に発展すると思われていたお茶の貿易だったが思わぬ出来事でつまずいてしまう。当時の日本茶は輸出を急ぐあまりきちんと乾燥させずに出荷していることが多かった。そのため、輸出先のアメリカで問題になってしまったのだ。そして明治16年にアメリカは、日本からのお茶の輸入を一時的に禁止した。これにより八女のお茶も大きな打撃を被った。
周りの同業者が倒産していくなか、八女の茶業を盛り上げるために奮闘したのが、明治初期に後を継いだ九代目の久吉だった。ちなみに許斐本家では九代目以降、当主は代々久吉の名を継いでいる。
「九代目は国内での販売拡大を目指し、お茶の品質改良に努めました。大正に入り、八女の気候風土が玉露の生産に適していることを科学的に検証し、玉露の品質向上を進めていきました。同時に現在の煎茶に当たる青製煎茶の量産化に尽力しました」
「八女茶」の誕生
当時、八女のお茶は「筑後茶」「星野茶」「黒木茶」など複数の名称で呼ばれていた。地名が入っていないため八女のお茶としてのブランドが浸透しない。そこで九代目は名称を「八女茶」に統一しようとしたが、なかなか地域の人たちをまとめることができなかった。
父親の意思を継いだ十代目は、大正14年、地元で行われた物産共進会の茶の品評会の部で、八女のお茶が質・量ともに向上したと確信。「八女茶」の名称と特産化を提案し、満場一致で可決された。こうした地道な取り組みと、その後の地元の人たちの努力によって、八女茶は全国有数の高級茶として全国に知られるようになっていった。
「茶問屋というのは、昔は農協のような役割を果たしていました。農家の人に技術指導して品質向上を目指す。生産された茶は出来不出来にかかわらず買い取りを保証していました。だから商売としてはあまり利益がでない。情熱がなければなかなかやっていけません」
地域の伝統産業を守るために世界へ茶を売り出す
山産物商として創業して300余年、茶問屋として150年。九州最古の茶商として、やるべきことは数多いと許斐さんは言う。
「新しいことはともかく、昔からのものを守っていくことが難しくなっています。例えば八女の伝統産業の一つである手漉(す)き和紙。これを受け継ぐ人がいなくなっています。同じく炭を焼く人も、あまりいない。どちらも伝統的な八女茶の製法に必要不可欠なもの。だから、周辺の産業も守っていかなければなりません。伝統産業というのは、地域資源が結集してできていますから」
八女茶とともに周辺の伝統産業を守っていくためには、八女茶をさらに発展させていかなければならない。そこで許斐さんは、世界に向けたアピールも行っていくつもりだという。「日本人の嗜好(しこう)が多様化し、お茶を飲む人は少なくなっている。これからは世界で飲んでもらう努力が必要です。そこで、一般財団法人食品産業センターの『本場の本物(※)』という制度で、八女の手漉き和紙と炭火を使った装置で焙煎する八女のお茶を『焙炉(ほいろ)式八女茶』という名称で認定していただきました。これによりほかの『本場の本物』と一緒に海外で紹介していきたいと思っています」
かつては欧米各地に輸出されていた伝統ある八女茶を再び海外に送り出していく。長い時間がかかるかもしれないが、地域の伝統産業を守っていくためにも、老舗茶商の挑戦は続く。
※地域の伝統に培われた本場の製法で、地域特有の食材などの厳選された原料を用いて本物の味をつくり続けているものを認定する制度
プロフィール
社名:有限会社このみ園
所在地:福岡県八女市本町126
電話:0943-24-2020
代表者:十四代 許斐健一(六代目久吉)
創業:宝永年間(1704~1710年)
従業員:7人
※月刊石垣2016年4月号に掲載された記事です。
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