玉那覇味噌醤油
沖縄県那覇市
三代目の時代に大きく発展
首里城の城下、かつては琉球王朝の士族の住まいが並んでいた地域で、玉那覇(たまなは)味噌醤油は沖縄に最後まで残った老舗の醸造所として、伝統的な天然醸造でみそをつくり続けている。創業したのは琉球王国最後の王である尚泰王(しょうたいおう)の時代、江戸時代末期の安政年間(1855〜60年)で、王室の御用達として、みそ・しょうゆを首里城に納めていた。現在は玉那覇有紀さんが五代目当主を務めている。
「創業したのは私の祖父の祖父と聞いています。当初は、高台にある首里城の下、平民が住む地域でつくっていたようです。つくったみそとしょうゆは首里城に納めるだけでなく、地域の人にも販売していました。そして二代目のころ、明治の廃藩置県により王朝の士族たちが首里城近くの屋敷から全て離れていったので、その一つを買い取って移ってきました。ですので、ここはもともと士族の屋敷だったんです。首里は高台にありながら水が良く、雨がサンゴ礁の石灰岩に浸透して湧いてきた地下水は、みそやしょうゆ、泡盛をつくるのに適していました」
玉那覇さんの祖父で三代目の有宏さんは、明治半ばに大阪の工業学校の醸造科で本格的にみそ・しょうゆづくりを学ぶ。その後沖縄に帰って跡を継ぐと、家の事業を拡大していった。昭和10(1935)年、戦前では県内最大規模の工場を創設していく。
「祖父は事業を営みながら、戦前から戦後にかけて、当時の首里市(昭和29年に那覇市に編入合併)の市会議員も務めており、首里の名士でもありました」
建築士とみそづくりを両立
工場は、昭和初期には従業員20人近くを抱えるまでに発展し、戦前には最盛期を迎えていた。しかし、第二次世界大戦末期に沖縄は戦場となり、首里城周辺は米軍の集中砲火を浴びたため、工場は爆風の影響で倒壊してしまった。
「工場の建物は壊れてしまいましたが、中の機材や材料、それに麹菌は無事に残っていました。それを使って祖父は、沖縄がアメリカの統治下に置かれる中、工場の再建を進めていきました」
三代目には息子が一人いたが戦争で失い、残ったのは娘4人だった。そのため三代目は60歳を超えた終戦後もみそ・しょうゆをつくり続けた。だが、明治40年代から約60年にわたり工場の経営を担ってきた三代目も、沖縄の本土復帰(1972年)を前にして亡くなった。
「職人が製造を続け、工場の経営は、残った娘4人のうち、私の母が四代目として跡を継ぐことになりました。私の父は沖縄戦で戦死していたので、息子の私が家業を手伝うために呼び寄せられました。私はここで育ったので子どものころから工場に出入りしていましたが、みそ・しょうゆづくりの技術的なことは何も知りませんでした」
玉那覇さんは東京の大学で建築を学び、卒業後は沖縄に戻って琉球政府の建築課で1年働いたが、再び東京に戻り、その後20年近く建築士として働いていた。当時は、工場の跡を継ぐつもりなど全くなかった。「5人兄弟で男は私だけだったので、私しか母の跡を継ぐ人がいなかった。当時は親の言うことは絶対でしたから」
次代に渡すまでの基礎づくり
玉那覇さんは家業を手伝いながら、建物の一部を設計事務所にして、建築士としての仕事も続けていった。「しかし、昭和47年に沖縄が本土復帰すると、それまで日本からの商品にかかっていた関税がなくなり、県外から安い商品が大量に入ってきました。そのため、地元の製造業者があっという間に廃業に追い込まれていき、残ったのはうちだけになりました。うちは先祖から受け継いできた伝統を守る使命感みたいなもので続けてきましたが、なんとかぎりぎりやっていける程度でした」
危機感を感じた玉那覇さんは、沖縄復帰特別措置法を活用して資金を調達し、工場の機械化により生産量を増加させた。また従来の量り売りだけでなく、パッケージ化することで新たな小売形態にも対応していった。平成初めには新製品も開発し、沖縄に自生するウコンを配合した「うっちんみそ」や、高級素材を使用し熟成に時間をかけた「王朝みそ」の販売も始めている。次の跡継ぎについても、設計事務所は玉那覇さんの長男が、玉那覇味噌醤油の方は次男が継ぐことが決まっている。
「これからも、祖父の代に働いていた職人さんから教えてもらった原料、製造方法を守っていきます。しょうゆの製造も今年再開させるつもりで、うちのみそを使った加工食品を開発する話もあります。今は次の代に渡すまでの基礎づくりをやっている最中といえます」
首里の水と沖縄の気候がつくり出す天然醸造のみそは、沖縄でこれからも愛され続けるだろう。
プロフィール
社名:有限会社玉那覇味噌醤油(たまなはみそしょうゆ)
所在地:沖縄県那覇市首里大中町1-41
電話:098-884-1972
HP:http://www.tamanahamiso.co.jp/
代表者:玉那覇有紀 代表取締役社長
創業:安政年間(1855〜1860年)
従業員:10人
※月刊石垣2020年6月号に掲載された記事です。
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