市場の変化、さらには自然災害など、企業を経営していく上での〝逆風〟は数えきれないほどある。どの会社にも当てはまる〝向かい風〟を見事に〝追い風〟に変えた、社長の先見と決断に迫る。
事例1 ものづくりを深め、人を育てることこそ進むべき道
日本綿布(岡山県井原市)
ジーンズに使われるデニムなどの生地を製造する日本綿布は、広島県との県境に位置する井原市にある。この地域は古くから織物業が盛んで、現在では井原で生産されたデニムは世界的に高い評価を得ている。中でも日本綿布は、その高い品質から多くの海外高級ブランドと取引をするまでに成長したが、そこに至るまでにはさまざまな逆境と決断があった。
創業当時から社名に「日本」と付けた創業者の先見性
日本綿布がこの地に創業したのは大正6(1917)年、来年で創業100年を迎える。豊富な水と温暖な気候に恵まれたこの地域では、江戸時代から綿花や藍の栽培が盛んで、明治時代には藍染めの厚地織物である「備中小倉(びっちゅうこくら)」が特産品として全国に広まっていった。
「備中小倉は天然の藍で染められた綿織物で、大学の制服や海軍の水兵さんの制服などに使われ、輸出もされていました。今から100年以上前、私の曽祖父は自分で染めた糸を近所の奥さんたちに織ってもらい、備中小倉をつくっていました。そしてこの地に工場を建てたのが、うちの会社の始まりです」と、日本綿布の代表取締役社長・川井眞治さんは言う。
「岡山県井原市の会社なのに、会社設立時から社名は日本綿布です。私が小さいころは大きな名前だなと思っていましたが、今となってみれば、100年も前に社名に〝日本〟と付けた曽祖父はたいしたもんだと思います。そして、この当時から築きあげてきた糸を染める力、生地をつくる力を今の日本綿布が受け継いでいるからこそ、世界に通用しているんです」
「備中小倉」の機屋(はたや)として産声を上げた日本綿布は、日本国内だけでなく製品を輸出し、順調に成長し続けていった。
そして戦後、昭和30年ごろから、ジーンズに使われるデニム生地が日本でもつくられるようになり、井原の織物業者の多くもアメリカ製のデニム生地を研究し、つくり始めるようになっていた。
「私が東京の大学を卒業して会社に入ったのが49年です。そのころはまだ日本綿布はデニムをつくっておらず、大阪の商社から受けた安い生地の生産を行っていました。ところが、60年のプラザ合意を境に急激な円高が進み、合成繊維を輸出していた企業の多くがあっという間に廃業に追い込まれていってしまったんです」
衰退しつつある織物業で生き残っていくための決断
そんなとき、政府の支援によって同業者らとともに欧州視察に行く機会があった。そのころのヨーロッパの繊維産業も、コストの安い東欧や北アフリカに生産拠点が移っており、フランスやイタリアの織物業者が衰退しつつある状態だったという。
「イタリア中部のトスカーナ地方などは、分業制で機屋を専業にしていたところがどんどんつぶれ、残っていたのは一貫生産ができる設備を持つ5、6社の工場だけでした。これを見て自分の会社も一貫生産に力を入れていかなければと、帰国後すぐに設備投資を進め、廃業した工場の設備を引き取っていきました。高品質のものをつくっていくためには、良い機械を入れなければいけないと思ったんです。この決断が、今の日本綿布を支えているといっても過言ではありません」と川井さんは振り返る。
同じころ、日本綿布にとって、もう一つの大きな転機が訪れた。多くの織物業者が高速織機でデニムを生産している中、それを旧式の織機である「シャトル織機」を使ってつくってみないかと、知り合いから言われたのだ。
「旧式の機械ですから、こんなものでデニムをつくったら機械が壊れるんじゃないかと思って試しにつくってみたら、やっぱり壊れました(笑)。でも、試行錯誤していくうちになんとか壊れずに織っていくことができるようになり、しかも高速織機とは違う高品質のデニムをつくれることが分かったんです。日本綿布はデニムでは後発でしたが、始めるのが遅かったからこそ、ほかとは違う方法を取ることができたといえます」
川井さんは東京の大学を出ているということもあり、入社してからは東京の会社に営業をすることが多かった。そんな中、代官山に拠点を持つ、若者に人気のあるブランドからデニムの発注を受けることができ、本格的なデニム生産が始まった。
高品質の製品をつくるために後発だからこそできた製法
「私は最初から安物など一切売らないというやり方を通してきました。良い物をつくってそれなりの値段で売る。たとえ受注量は少なくても、高く売れば経営的には苦しくありません。価格で勝負しては、海外のものに勝つことなどできませんから」と川井さんは言う。
日本綿布のデニムは現在、その品質の高さが世界中に知られ、ラルフローレンやポール・スミスなど高級アパレルブランドが扱う1本3万円以上するプレミアムジーンズの生地に採用されている。現在では、日本綿布の売上高の約65%を海外向けが占めている。
そんな海外進出のきっかけは、今から20数年前、日本にまだバブルの勢いが残っていたころ、アメリカのジーンズ産業で成功した日本人の知り合いから、アメリカも面白いから進出してみたらどうかという誘いがあったことだった。
「ちょうどアメリカでプレミアムジーンズのブームが来ていたころで、ロサンゼルスとニューヨークのホテルで展示会を開いたところ、生地のクオリティーが高かったこともあり、すぐに向こうのブランドに採用されることになりました」
高品質のデニムをつくる日本綿布を支えているのが、デニム生産開始時から使っている旧式のシャトル織機である。これを使うことで、他社のデニムとの質の違いを出すことができるのだという。
「シャトル織機は、糸のテンション(張り)を緩くして織ることができるんです。高速織機でテンションを強く織ると、糸に緩みがないぶん生地の表面の傷が少ない。でも、それでは生地に〝味〟が出ないんです。糸を緩く織ることで生地に凹凸感が出て、肌触りが格段に違ってきます。このシャトル織機を使うのに一番重要なのは職工さんです。使う人が下手だと織機はうまく動いてくれませんから、機械だけでなく技術を持つ人も育てなければならない。機械と人がいるからこそ、高品質のものができると思います」
海外から入ってくる製品には技術力と高品質で対抗する
日本綿布は、顧客の要望に合わせた製品をつくるだけではなく、独自の技術開発にも取り組んでいる。その一つが「グラデーション・ファイバーデニム」という、綿糸を多層に染めることで生地に多重な色相を持たせる世界初の技術である。また、これまでは困難とされてきた、染色後のタテ糸に顔料を定着させることで、生地に微妙な色合いが出る「ソリッド・ファイバーデニム」も開発している。これらの高付加価値を持つ自社オリジナル製品も、高級アパレルブランドに売り込んでいる。
「顧客から、こういうのをつくったら面白いんじゃないかと言われて開発を始めたのですが、やってみたらうまくいったんです。開発を始めた理由は、やはりほかとの差別化です。世界中から安いものが押し寄せている中、値段では日本のデニムは到底勝てない。だからこそ、日本が持つ高い技術を生かした製品をつくっていかなくてはなりません」と、川井さんは力説する。その話の裏側には、数年後に実施が予定されているTPPに対する危機感がある。
「TPPが始まって外国から安いものが入ってきても、それより安くものをつくろうなどと思わないほうがいい。われわれがどこまで自分たちのつくるものの精度を上げていくことができるか、どこまで価値のあるものをつくっていけるのか、それしかありません。そのためには、ものづくりを深め、人を育てる。これが日本綿布が急いでやらなければいけないことです。これからの5年、10年でどのようなお客さまをつかまえ、どう進化していくか。それで10年後にデニムの生産がゼロになっても構わない。ゼロでも何かほかのものがつくれているはずです。日本の製造業にはその強さがありますから」
独自の技術で新たな顧客を開拓してきた日本綿布は、その技術を押し上げていくことで、さらに上を目指していこうとしている。
会社データ
社名:日本綿布株式会社
所在地:岡山県井原市東江原町1076
電話:0866-63-0111
HP:http://www.nihonmenpu.co.jp/
代表者:川井眞治 代表取締役社長
従業員:65人
※月刊石垣2016年8月号に掲載された記事です。
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