光國本店
山口県萩市
苦い皮を菓子に使う
山口県の日本海側にある城下町の萩は、夏ミカンの産地でもある。江戸時代中期、近隣の島に漂着した珍しい果実の種をまいたものが原木となり、その実がのちに萩にもたらされた。その果物は夏に収穫すると美味なことから夏橙(なつだいだい)と呼ばれるようになり、明治維新後、廃藩置県により経済的に困窮した士族たちの救済事業として、萩で盛んに栽培されるようになったのがその始まりである。その萩産の夏ミカンを使った菓子である「萩乃薫」と「夏蜜柑丸漬(なつみかんまるづけ)」で知られるのが光國本店である。
「うちは初代の光國作右ェ門が安政5(1858)年に創業したとしていますが、これは、この年に描かれた城下町の絵に、光國の店が描かれていたからです。なので実際には、それ以前から菓子屋をやっていたと思います。もしかしたら作右ェ門よりも前の代から始めていたかもしれません。記録が残っておらず、昔のことは三代目である私の父の義太郎が書き残したもの以外、よく分かっていないのです」と、光國三代目の娘で四代目女将(おかみ)の光國良子(よしこ)さんは言う。
初代は、明治になって萩で夏ミカンの栽培が行われるようになると、その皮を使った菓子の研究を始めた。そして明治13(1880)年、4年の歳月をかけ、皮を細切りにして糖蜜で煮た「萩乃薫(はぎのかおり)」が完成した。「夏ミカンの実は水分が多くて菓子には使えないことから皮を使ったようです。でも皮は厚くて硬く、苦味が強くて食べられない。試行錯誤の末に、皮の表面を1㎜ほど削ると苦味が減ることが分かり、それでようやくお客さまに売れる商品ができたそうです」
母娘二人で店を続ける
二代目の貞太郎が全国の博覧会に出品して賞を獲得したが三代目はそれに甘えず、新たな菓子をつくろうと研究を重ねた。そうして大正5(1916)年に完成したのが「夏蜜柑丸漬」だ。夏ミカンをくり抜いて中身を取り除き、そのまま皮は糖蜜で煮て、中にようかんを入れて固めた菓子である。夏ミカンを丸ごと1個使っていることで評判を呼び、今では光國本店の代表的銘菓となっている。
「とはいっても、そのころはお客さまのほとんどが萩の人だったので、普通の和菓子もつくりながら、それ以外の一品として夏蜜柑丸漬や萩乃薫を売っていました。終戦後もしばらくは砂糖が手に入らず、学校給食のパンをつくったりして、夏ミカンの菓子をつくることができずにいました」
そして昭和35(1960)年、良子さんが18歳のときに、三代目が病気で亡くなってしまった。残されたのは母と良子さんだけだった。
「職人さんがいたので、母と私も手伝いながら店は続けられましたが、しばらくして私は店を継ぐ継がないで母と言い争いになり、家を飛び出ました。私は戦後の教育を受けたので、家の前にまず自分という考えがありましたから」
家出した良子さんは、中学時代の同級生で、その後結婚した仁志さんを頼って埼玉県で暮らした。それから2年後、母親の説得で仁志さんとともに地元に帰った。
「私は店で働き、教員だった主人は萩でも教員をしていました。ところが、私の知らないところで母が主人を口説いていたんです、後を継いでくれと(笑)」
そして仁志さんは、四代目として菓子づくりをすることになった。
あくまで手づくりにこだわる
その後、萩市は観光に力を入れるようになり、多くの観光客が萩を訪れるようになった。
「すると、それまでは地元でしか食べられていなかった夏蜜柑丸漬が、その形が珍しいということで多くの観光客に買っていただくようになりました。その後は東京のデパートにも卸すようになり、全国に知られていきました」
また、マスコミでも取り上げられるようになり、そのたびに注文が増えていった。しかし、夏蜜柑丸漬の製造は全て手作業で、しかも完成までに5日かかるため、1日にできるのは平均80個、多くて120個でしかない。そのため売り切れたり、注文を待ってもらったりすることも多い。それでも、光國本店はあくまで手づくりにこだわっている。
「私の息子も、最初は自分のやりたい道に進みたかったようですが、大学卒業後は菓子学校で菓子づくりを学び、東京の和菓子の老舗で修業をして家に戻ってきてくれました。主人は大人になってから菓子づくりを始めたので新たなことはできませんでしたが、息子は基礎を学び経験を積んでいるので、萩の夏ミカンを使った新しいお菓子を開発してくれると思います」と、良子さんは目を輝かせる。
歴史ある夏ミカンと手づくりにこだわる光國本店は、萩の城下町のように、いつまでもその姿を変えずに菓子づくりを続けていく。
プロフィール
社名:有限会社光國本店(みつくにほんてん)
所在地:山口県萩市大字熊谷町41
電話:0838-22-0239
HP:https://www.mitsukuni-honten.com/sp/
代表者:光國仁志
創業:安政5年(1858)年
従業員:6人
※月刊石垣2021年1月号に掲載された記事です。
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