親子三代で商売を広げる
福島県浜通りの北部にあり、相馬野馬追で知られる南相馬市に、一般・産業廃棄物処理や再生資源の仕入れ・販売などを行う高良はある。創業は大正2(1913)年で、初代・高橋要助が原町(現・南相馬市原町区)に開業した。 「初代は月舘町(現在の伊達市)で父親とともに養蚕業を営む農家でした。一念発起して雑貨商を始めましたがうまくいかず、親族を頼って原町に移住し、鉄くずや繊維くず、空き瓶の売買を始めました。その年の暮れには髙良商店の看板を掲げ、個人商店としての営業が本格的に始まりました」と、四代目で社長を務める高橋隆助さんは言う。
大正後期には一時、みそ、しょうゆ、砂糖、塩などの日常食料品も扱うようになり、昭和初期からは古物商の許可を得て、古物・骨董(こっとう)品も取り扱い、商売は順調に進んでいた。 「初代は息子の柳助を二代目とし、柳助の長男である利助や親類たちとも力を合わせて、少しずつ商売を広げていきました。しかし、第2次世界大戦で柳助の息子3人が相次いで軍に召集され、柳助は心労が重なって体を壊し、終戦間近の昭和19年に55歳で亡くなってしまいました。そのため、終戦までは初代の妻・ツエや利助の妻・孝子ら親族の女手でなんとか商売を続けていきました」
その後、長男の利助は満州で終戦を迎えたがシベリアに抑留され、次男の利巳はフィリピンのレイテ島で戦死。三男の勝巳が先に戦地から戻ると、利助が戻るまでの2年間、商売を切り盛りしていった。
製紙会社の古紙直納業者に
昭和22年に利助が帰還する頃には、社会は戦後復興の資源需要で活気が戻っていた。三代目を継いだ利助は、資源の重要性が増すことを予見し、事業を再生資源に特化することを決断した。この判断が時代のニーズにマッチして事業は順調に推移し、従業員の数も増えていった。そして26年には個人商店から「合資会社髙良商店」に改組し、会社組織とした。 「当時は主に古紙や古繊維、鉄くず、非鉄金属、空瓶を扱っていました。28年に製紙会社が誘致企業第1号として原町に大規模な工場を建設すると、原料として古紙が必要なことから、うちは直納業者の指定を受け、古紙を供給するようになりました。これが大きな転換期となりました」
当時は、まだ紙の利用が少なく、古紙回収の仕組みも確立していなかったため、東北地方の資源業者を回り、古紙を集めていった。製紙会社の生産量は年々伸び、その結果、同社は東北6県だけでなく北陸や北関東にも営業エリアを拡大。以降は多くの製紙会社の古紙納入業者に指定された。さらに47年には、鉄鋼会社へのスクラップの納入も開始した。 「とはいえ、良いときもあれば、悪いときもある。古紙は市況で価格が大きく変わり、オイルショックのときは暴騰しましたが、その後すぐに余剰が出て暴落しました。こういう時期が周期的に来て、紙が余っているときは販売先がなく、これまで何度も苦労してきました」
環境重視の時代に対応
社長の高橋さんは、東京の大学を卒業してすぐに地元に戻り、同社に入社。その3年後には市内にスクラップヤードを新設し、その後も各地に営業所を開設していった。 「先代である私の父が、これまでの取引で地方の業者さんからの信用を得ていたので、私が出て行っても皆さん相手にしてくれました。そのおかげで、現在では20カ所の営業所とグループ企業にまで広げていくことができました」
現在は、モノに対する社会環境も変化し、3R(リユース・リデュース・リサイクル)といった環境重視の時代になっている。同社でもこれに対応するため、さまざまな変革に迫られている。 「主力の古紙は、人口減少などの要因により令和12年には発生量が減ることが予測されています。その一方で、東日本大震災をきっかけに普及した太陽光パネルが耐用年数を迎えるのが12年代前半で、それに対応するため、令和3年には使用済み太陽光パネルのリサイクル施設を稼働させました。中間処理業者として県の認定も受け、受け入れ量が増えてきています」
令和12年にはSDGsが目標達成期限を迎え、その後に向けて新たな開発目標が打ち出されることが予想されている。 「国が循環経済を推進していく流れがあり、3Rがより重要性を増していきます。そこで勝機をつかむために、これからも常にアンテナを張り、時代を先取りしながら戦略を練っていきます」 同社は、循環経済への積極的な対応を通じ、時代の先端を行く企業へと突き進んでいく。
プロフィール
社名 : 株式会社高良(たかりょう)
所在地 : 福島県南相馬市原町区南町1-93
電話 : 0244-22-7111
代表者 : 高橋隆助 代表取締役
創業 : 大正2(1913)年
従業員 : 135人(パート含む)
【原町商工会議所】
※月刊石垣2025年3月号に掲載された記事です。