東京・浅草の国際通りを歩くと、朝から人の列ができている店がある。観光客ばかりではない。近所の人もいれば、遠方からわざわざ訪れる人もいる。店先のたたずまいは飾り気がないが、その前にできる行列がこの店への期待の深さを物語っている。1942年創業のベーカリー「パンのペリカン」である。
店に入ると、初めての人は少し拍子抜けするかもしれない。いわゆるパン屋のようなにぎやかな売り場ではないからだ。どちらかというと製造工場といった方が近い。棚に並ぶのは食パンとロールパンの2種類だけ。クロワッサンも総菜パンも、菓子パンもない。それでも店の前には毎日のように人が並び、昼前に売り切れることも珍しくない。
なぜ、このような店に人が集まるのだろうか。
値段ではなく信頼で選ばれる
近年、食品の値上げが続いている。小麦、砂糖、油、電気代、物流費??あらゆるコストが上昇し、食品企業や飲食店は価格の判断を迫られている。その中で増えているのが、いわゆる「ステルス値上げ」である。価格は据え置きながら、内容量だけを減らす方法だ。箱の大きさは同じなのに個数が減っている。いつの間にか数グラム軽くなっている。
消費者はその変化に気付いたとき、心のどこかで違和感を覚える。原材料が上がれば価格が上がるのは当然である。問題は値上げそのものではない。知らされなかったことである。
人は日々の買い物の中で、無意識のうちに店の誠実さを感じ取っている。正直に説明する店、変わらぬ品質を守る店には安心がある。反対に、小さなごまかしが続けば、知らぬうちに信頼は薄れていく。
商いとは結局のところ、信頼の積み重ねである。値段はその一部に過ぎない。
ペリカンの商いはそのことを端的に示している。この店は商品を増やして競争する道を選ばなかった。戦後、東京には多くのパン屋が生まれ、菓子パンや総菜パンなど多彩な商品が並ぶようになった。どの店も新しい商品を増やし、売り場をにぎやかにしていく。
その中で、2代目店主は「自分に10の力があるなら、100のものをつくるより一つに使う」と決意。そして商品を食パンとロールパンに絞ることを決めた。これは縮小ではない。集中という戦略である。
変わらない味が信頼をつくる
ペリカンのパンは派手ではない。だが、毎日食べても飽きない味だ。トーストにしてバターを塗る。卵やハムを挟む。スープと一緒に食べる。食卓の主役ではないが、どんな料理にも寄り添う。暮らしの基礎になるパンである。
消費者はしばしば新しさを求める。新商品、季節限定、期間限定。しかし生活に本当に必要なのは、毎日安心して食べられるものだ。その当たり前を丁寧に守ることが、結果として長く続く店をつくる。
商いの現場では「もっと増やそう」という誘惑が常にある。商品を増やし、サービスを増やし、情報を増やす。しかし本当に強い店ほど、自分の仕事をよく知っている。何を売るかだけではない。何を売らないかを決めているのである。
浅草の小さなパン屋の棚には、2種類のパンしか並んでいない。だがその背後には、80年以上積み重ねてきた信用がある。
それは一朝一夕に生まれたものではない。毎日同じ品質を守り、同じ味を届ける。その地道な積み重ねが、客の信頼を育ててきた。商いの世界では、新しい仕掛けや華やかな戦略が注目されがちだが、長く続く店を支えているのは、日々の仕事を誠実に続ける力にほかならない。
さらに言えば、商いの信用とは「変わらないこと」を守り続ける覚悟でもある。毎日同じ味をつくり続けることは簡単ではない。だが、その努力こそが店の評判を育て、やがて地域の信頼となる。
商いとは商品を売る仕事ではない。人と人との関係を築く仕事である。そしてその関係を支えるのは華やかな工夫ではなく日々の誠実さである。そのことを浅草の朝の行列が物語っている。商いの力とは値段の安さではない。信頼の深さである。
(商い未来研究所・笹井清範)
