中村蒲鉾
富山県魚津市
婚礼用かまぼこで発展
「天然のいけす」とも呼ばれるほど海の幸が豊富な富山湾に面した魚津市で、中村蒲鉾は100年以上にわたり、かまぼこの製造販売を行っている。初代・政次郎が明治40(1907)年に、この地で創業した。「初代の父・捨次郎は漁師でしたが、余った魚を使ってかまぼこをつくり、売り始めました。息子の政次郎がそれを本業としたのです」と、五代目の中村紀之さんは言う。富山では明治時代から大正時代にかけて沿岸漁業が盛んで、店から目と鼻の先にある浜辺では、タイの地引き網漁がよく行われていたという。
「ここで取れたタイは婚礼の引き出物にも使われていましたが、不漁のときには出せませんでした。そこで政次郎は、タイの形をしたかまぼこをつくって引き出物用に販売することを考えました。四国から細工かまぼこの名人を招いてつくり方を学び、そうしてできたタイの形のかまぼこは、本物のタイよりも日持ちするということもあり、婚礼の引き出物として地元で徐々に広まっていったのです」
昭和8(1933)年に初代が亡くなると、息子の次一が二代目を継いだ。絵心のあった次一は、細工かまぼこづくりに独自の工夫を凝らした。すり身を絞り出す際に使う口金の部分に刻みを入れて菊やボタンの花を描いたり、彩色した二色のすり身を絞り出し袋に一緒に入れて、同時に絞り出すというアイデアを考えたりしたのだ。「二色のすり身を一緒に絞り出すことで色に明暗やグラデーションが出て、描かれた絵に立体感が出るのです。その技術を使ってつくった細工かまぼこは、県の品評会で評価され、名誉賞を受賞しました」
新たな技術を他社にも伝える
昭和15(1940)年、戦争の足音が近づくなか、市内でかまぼこを製造する10業者12事業所が企業合同し、魚津合同かまぼこ製造所を設立した。その翌年には太平洋戦争が始まり、戦時中は原材料不足に悩まされながらも、互いに協力し合ってかまぼこづくりを続けていった。「その間、他の業者との技術交流が進み、それが現在のかまぼこ製造技術の基礎となっていきました。戦争が終わり、昭和30年ごろから、それぞれの業者が独立して、自分たちの店で製造していくようになると、次一はタイ以外にも鶴や亀、富士山、エビ、そして松竹梅や宝船といった、おめでたい柄の細工かまぼこの創作に力を入れていきました」
戦後の経済復興もあり、婚礼の引き出物におめでたい柄のかまぼこを出す風習は、魚津だけではなく富山県一帯に広まっていった。それから昭和時代の終わりにかけては、引き出物用の細工かまぼこの注文がどんどん増えていったという。また、かまぼこ自体もどんどん大きくなっていき、昭和40年以降になると、一つ7㎏という、引き出物用の大きな細工かまぼこもよくつくられるようになったという。
「そのころがかまぼこ生産の最盛期でした。その一方で次一は、形だけではなく、味の向上や品質改善、生産方法の改良にも取り組んでいき、その技術を惜しみなく他の業者にも伝えていきました。それが評価されて、昭和52(1977)年には労働大臣(現・厚生労働大臣)卓越技能賞を受賞し、『現代の名工100人』にも選ばれました」
プロフィール
社名:有限会社中村蒲鉾(なかむらかまぼこ)
所在地:富山県魚津市本町2-14-9
電話:076-522-0730
代表者:中村繁文 社長(四代目)
創業:明治40(1907)年
従業員:8人
※月刊石垣2019年7月号に掲載された記事です。
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