まちの鍛冶屋から鉄工所へ
新潟県の中央部にあり、「錦鯉の里」として知られる小千谷市は、高い精密加工技術を持つ機械・金属会社の集積地でもある。エヌ・エス・エスはこの地で1884(明治17)年に鍛冶屋として創業。現在では世界最高水準の精度を誇るスピンドル(工作機械の主軸となる回転装置)を製造している。
「初代の定吉は養子として中町家に入り、実家が鍛冶屋だったことから同じ商売を始めたようです。当時は、近所の人のためにくわや鍋などをつくっており、そのうちに脱穀機やみそづくりのタンクなども手掛けるようになりました」と、五代目で同社社長を務める中町剛さんは言う。中町さんは、初代のひ孫に当たる。
1939(昭和14)年、二代目の儀作さんは旋盤を購入し、「中町鉄工所」を新たに創設した。軍需景気が高まる中、その前年に市内で操業を始めた軍需工場からの仕事を受けるためだった。
「購入した旋盤は、東京から貨物列車で近くの駅まで運ばれてきたのですが、到着した日は大雪で、駅からソリに積んで雪道を引っ張って家まで持ってきたそうです。その後、この軍需工場が米軍による空襲の標的になる恐れがあったため、そこにあった最新鋭の旋盤2台がうちの工場に“疎開”してきました。うちの旋盤は古い機種だったので、大いに助かりました」
しかし、二代目が戦時中の43年に46歳で急逝してしまう。長男の清吾さんは満州に出征中で、次男の昭吾さんが工場を支え、戦後は当時まだ10代だった兄弟二人で工場を切り盛りしていった。
部品の精密加工の道に進む
「戦後、兄弟二人が始めたのが、測定用ゲージ(部品の寸法や精度を測るための工具)の下請けです。戦時中に疎開してきた東京のゲージメーカーの仕事を請けていきました。ただ、工賃が安く、自分たちで完成品をつくった方が得だと二人は考え、仕上げに必要な研削盤を導入しました」
ゲージ製造には、公差千分の1mmという高い寸法精度が求められ、その高い技術を追い求めることが、その後の事業展開を支える技術力の礎となった。また、最新鋭の機器をそろえて高い技術を追い求める姿勢は、そのころから始まった。
「稼いだ金は機械購入につぎ込んでいたので、当時、会社を手伝っていた私の祖母は『うちは、機械さえ買わなきゃお金に困らないのに』が口癖でした。今もそれは変わりません」と中町さんは笑う。
69年に「中町精測器製作所」に改組し、ゲージ製作での技術を生かし、部品の精密加工へと事業を広げた。小千谷市には優れた技術を持つ機械・金属会社が数多くあり、それらの会社から受注していった。
1980年代、同社の歴史を大きく変える転機が訪れた。県外の工作機械メーカーが大量のスピンドルを必要としていたが、製造を請け負える業者がなく、取引のなかった同社に話が来たのだ。
「未知の製品でしたが、求められる精度が公差千分の3mm以下で、測定用ゲージで千分の1mmに仕上げる技術はあったので、挑戦したのでしょう」
世界最高水準を追求する
バブル景気で受注は拡大し、工場を増設したが、バブル崩壊で赤字となり、金融機関からリストラを求められた。だが、清吾さんと昭吾さんの兄弟はそれを退けた。
「人を失えば技術も失う。景気が落ち込んでも必ず回復して、今の技術がまた必要になると信じていたのです。すると需要が回復し、黒字に転換できました」
96年、社名をエヌ・エス・エスに改称したが、その翌年に社長の清吾さんが亡くなり、後を継いだ弟の昭吾さんもその2年後に他界し、清吾さんの長男である中町さんが社長に就任した。
「入社して10年がたち、子どもの頃から自分が後を継ぐものだと思っていたので、動揺はありませんでした。景気が良い時期だったのも助かりました」
中町さんも新たな技術への挑戦を進め、ベアリングメーカーからの依頼でスピンドルユニット(回転を支える装置)の製作に挑戦。3年かけて回転時の軸のブレを千分の1mm以下に抑えることに成功すると、さらに当時、世界最高水準の毎分4万回転も達成した。現在は7万回転を実用化し、10万回転の開発に取り組んでいる。
「スピンドルは、工作機械の心臓部ですが海外製も多く、日本の製造業のリスクにもなる。私たちが安定供給できる体制をつくることは、自社の利益だけでなく、産業全体への貢献だと考えています」
鍛冶屋に始まり、140年かけて世界トップクラスの回転技術にたどり着いた同社は、今なお進化を続けている。
プロフィール
社名 : エヌ・エス・エス株式会社
所在地 : 新潟県小千谷市桜町2379-1
電話 : 0258-82-2255
代表者 : 中町 剛 代表取締役社長
創業 : 1884(明治17)年
従業員 : 135人
【小千谷商工会議所】
※月刊石垣2026年7月号に掲載された記事です。
