地域の特色を生かし、独自のストーリーを持つ地ビールが人気を呼んでいる。生産地に足を運ぶからこそ、おいしさも格別なのだと、多くの人が集う。地ビールで地域の新たな魅力を発信する2つの小さなブルワリー(醸造所)を訪ねた。
老舗味噌蔵の九代目が生み出した“蔵の街”の文化を醸すクラフトビール
江戸時代に創業し、幕末から味噌の製造販売を続ける油伝味噌。国の重要伝統的建造物群保存地区として、栃木県内で唯一選定された地域にあり、同社の建物も趣がある。2023年、その土地と建物を生かし、取り組んだのがクラフトビールの製造・販売だ。土蔵で醸される味噌屋のビール。そのストーリー性と地域の魅力を融合させて、栃木発のクラフトビール文化を醸成している。
父の急逝、水害、コロナ禍……新規事業で起死回生を模索
レトロなまち並みを保存して観光資源に―。そうした地域は、全国にいくつかある。栃木市嘉右衛門町もその一つで、2012年、文化庁が栃木県内で唯一、伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区の略称)に選定した。同地区のJR栃木駅の北に延びる日光例幣使街道は、江戸時代に京都と日光東照宮を結ぶ街道で、周囲は宿場町として栄えたという。
その時代から街道にのれんを掲げているのが、油伝味噌だ。創業は1781年。油屋として起業し、幕末から業態を味噌の製造販売に切り替えて現在に至る。敷地内には、明治時代に建てられた、歴史的にも文化的にも価値ある蔵を複数有し、店構えもまち並みを象徴する風情が漂う。この趣ある建物をそのままに、2023年、独自のクラフトビールを発売したのが、九代目代表取締役の小池英太郎さんだ。
「歴史は長いですが、経営は1960年代から厳しい状況です。食の欧米化、近代化が進み、味噌を買うのはスーパーとなって、大手メーカーの安価な味噌が席巻しています。価格競争に巻き込まれ、市内の味噌屋で残っているのは今やうちだけです」
生き残り戦略があったわけではないと小池さんはいう。風向きが変わったのは80年代後半、県の「誇れるまちづくり事業」の一環で、栃木市が〝蔵の街〟整備に本腰を入れた。景観修景や道路整備が大々的に行われ、まち歩きを推奨する回遊ルートも整っていく。油伝味噌も敷地内に味噌田楽を振る舞う喫茶室を設け、団体客の立ち寄りスポットとしてにぎわった。だが、その状況も2010年にはピークアウトしてしまう。
「旅行スタイルが団体から個人へと移り変わり、バスツアーも激減しました。しかし、これといった打開策がなく、設備費用や人件費を縮小して窮地をしのぐ、我慢比べが続きました」
小池さんは大学卒業後、民間企業でエンジニアとして働いていたが、家業を支えるべく19年に入社した。だが、同年に父・英夫さんの病気が発覚、急逝してしまう。一緒に働けたのは2〜3カ月ほどで、急きょ後を継いだ小池さんに、追い打ちをかけるように同年10月に東日本台風(台風19号)が襲った。近くを流れる巴波(うずま)川が氾濫し、市内約2000戸以上が浸水する大災害となり、地域イベントは軒並み中止。観光客は途絶え、そのまま翌年はコロナ禍に突入していく。
「我慢だけでは、さすがに乗り切れません。代々受け継がれてきた土地と建物を生かし、できることは何かを必死で考えました」
ブルワリー先駆者の研修やコンサルを受けて事業化
〝新しい挑戦〟をするに当たり、小池さんは自らにいくつかの条件を課した。①栃木市内にまだないもの②観光で地域をけん引できる③味噌とジャンルがかぶらない④スモールスタートで始められる。全ての条件をクリアしたのがクラフトビールだった。きっかけになった、宇都宮市にある栃木マイクロブルワリーの存在も大きい。
「代表の横須賀貞夫さんは、小規模ブルワリーの開業支援などのコンサル事業も展開されていました。クラフトビールの製造販売に必要な酒類醸造免許は、醸造経験がないと取得できません。でも、栃木マイクロブルワリーでは醸造経験とみなされる研修を実施していて、免許取得後のサポートも手厚い。県内にブルワリーがいくつも誕生していましたが、栃木市内には1軒もなく、味噌屋がビールをつくれば話題性があると考え、決断しました」
