わが国の商工会議所の生みの親ともいえる渋沢栄一の『論語と算盤(そろばん)』の現代語訳を執筆し、「最も読みやすい」と34万部のベストセラーを記録した作家の守屋淳さん。守屋さんは、渋沢翁を通して「現代のビジネスパーソンは何を意識し、どのような企業活動を行うべき」だと考えているのだろうか。お話を伺った。
分かりやすさにこだわりベストセラー作家へ
今でこそ、2024年の新一万円札のモデルとして、また21年のNHK大河ドラマ『青天を衝(つ)け』の主人公として注目される渋沢栄一だが、世の中に広く知られるようになったのはここ10年のことだ。「公教育でくわしく取り上げられなかったことが理由の一つとして挙げられます。日本ではお金にまつわる話はタブー視されてきましたから」と守屋さんは渋沢翁の知名度不足の背景を説明する。
「私たちは戦国武将についてはよく学びますが、明治時代の実業家についてはあまり知りません。しかし現代社会の成り立ちを学ぶには、明治の実業家が何を成し遂げたのかを知ることが重要だと思います」
守屋さんは2010年に渋沢翁の著書『論語と算盤』の現代語版を出版し、「日本一分かりやすい翻訳本である」と高い評価を受けた。
執筆するきっかけとなったのは、リーマン・ショックの直後に行われた経済同友会関係者との読書会だった。幹事役は、渋沢翁の玄孫(やしゃご)にあたる渋澤健氏で、課題図書が『論語と算盤』だった。参加者には、日本を代表する大企業の経営者たちも顔をそろえ、「今後、強欲資本主義は続かないのではないか」という緊張感のある意見交換が行われたという。「リーマン・ショックが起こった当時、米国が倒れギリシャ危機が起こり、世の中がパニックに陥っていました。今後、何を手本にすればいいかと模索したときに、日本には『論語と算盤』があるじゃないかと原点回帰したのです」
このとき、経営陣が口をそろえて言った言葉が、守屋さんの情熱を駆り立てることとなる。「明治時代の文章は読みにくくて理解できない」。「それを聞いて、私は、どなたでも理解できる‶やさしい翻訳〟をしようと決意しました」。徹底的に分かりやすさにこだわった守屋さんの現代語版は評判を呼んだ。これを愛読書に挙げる人は、経営者にとどまらない。例えば、北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督は、指導の一環として選手らに同書を配っている。栗山監督のまな弟子である、あの大谷翔平選手は、米国に持参し、バイブルにしているそうだ。
サラリーマンを10年。順風満帆とはいかなかった
守屋さんは、東京都に生まれた。中国古典の第一人者である守屋洋さんを父に持ち、幼い頃から論語の専門書に囲まれて育った。そうした生い立ちから、守屋さんが中国古典の専門家になったのは、ごく自然のことのように思えるが、その道のりは決して順風満帆ではなかった。「中国古典は現代の日本人、特に若い人にとってあまりなじみがありません。そこは漢文が基礎教養だった父の世代と大きく異なる点だと感じていました。まさか私も中国古典で食べていけるとは思ってもいませんでした」
大学卒業後は大手書店に就職し、サラリーマン生活を10年続けた。この10年が守屋さんを大きく成長させた。「私はサラリーマンとしては不出来だったんですよ」と苦笑する。組織の理不尽さに違和感を覚え、直属の上司とも反りが合わなかった。「自分は一人で執筆しているほうが向いている」と10年目に会社を辞め、文筆家としての第二の人生を歩き始めたのだ。
「私は、日本の組織にありがちな理不尽な上下関係や努力信仰を‶肌感覚〟で知っています。だからこそ、本を通して、そのほころびを繕うサポートができたらと考えています」
そんな守屋さんが、理想の経営者として敬愛するのが渋沢翁だ。渋沢翁は大実業家として知られるが、「それは渋沢栄一翁の一面を捉えたものに過ぎない」と守屋さんは言う。経済活動と並行して、社会事業にも桁はずれに貢献してきた人物だからだ。明治期には三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎をはじめ、偉大な経済人が数多く誕生したが、渋沢翁は財閥をつくらず、その情熱を社会事業に充てた。「もともと中国古典には対極的な要素を使って社会を良くしようとする考え方があります。例えば、陰と陽みたいなことです。日本の経営者も管理職も皆さん知ってますよ。『厳しさと優しさのバランスが必要だ』ということくらい。しかし、言うは易しで、実践するのは非常に難しいのです。だからこそ、渋沢翁から得る学びは大きいのです」。渋沢翁は、「本当の経済活動は、社会のためになる道徳に基づかないと、決して長く続くものではない」と説く。もうけることしか考えない「モラルなき資本主義」に未来などないのだと、渋沢翁は100年以上も前に提唱していたのだ。
追い込まれたときこそ先人に学ぼう
ただし、「論語を100%まねするのは違う」と守屋さんは考えている。孔子が生きた古代中国と現代は違う。論語の教えには、年長者を敬うあまり、社会や会社の上層部の問題点を指摘できなくなるなどの課題もあるのだ。
そうした課題を踏まえ、守屋さんは、2月に『「論語」がわかれば日本がわかる』を刊行した。本書では、論語や儒教のものの考え方を読み解き、さまざまな国際比較研究の知見と照らし合わせることで、日本人を無自覚のうちに縛るものの正体を解き明かす。「執筆のきっかけは、ある経営者が『グローバル化していく中で、自分のことを理解していないと世界で戦えない』と嘆いておられたことです。まずは、己を知ること。その上で、私たちに何ができるかを考え直すときに来ているのだと思っています」と、守屋さんは新刊を書いた意味を力強く語った。
取材が終わり、守屋さんとしばし雑談した。話題は、超高齢社会問題など、先行き不安な日本の未来についてだ。
「大丈夫、私は悲観していませんよ。追い込まれたときは、明治時代と現在を比較してみてください。明治時代は、あまり産業もなければ、人口も現在の半数以下でした。隣の強国だった清は列強諸国からの植民地化が始まったような時代ですよ。そこから、日本がどのように発展していったのかを学ぶのです。明治の人たちに比べれば、現代人は資源も知恵も持っています。きっと大丈夫です」
追い込まれたときこそ、物事を俯瞰してみる。そこからどう行動すべきか。今こそわれわれの真価が問われている。
守屋 淳(もりや・あつし)
作家
1965年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。現在は作家として『孫子』『論語』『韓非子』『老子』『荘子』などの中国古典や、渋沢栄一など近代の実業家についての著作を刊行するかたわら、グロービス経営大学院アルムナイスクールにおいて教鞭をとる。著訳書に34万部の『現代語訳 論語と算盤』や『現代語訳 渋沢栄一自伝』、シリーズで20万部の『最高の戦略教科書 孫子』『マンガ 最高の戦略教科書 孫子』『組織サバイバルの教科書 韓非子』などがある。2018年4〜9月トロント大学倫理研究センター客員研究員
写真・後藤さくら
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