鉛温泉 藤三旅館
岩手県花巻市
賢治も愛した名湯
『雨ニモマケズ』や『銀河鉄道の夜』などで知られる宮沢賢治の故郷、岩手県花巻市には、古くから親しまれている温泉宿がいくつもある。その中の一つ、鉛温泉藤三(ふじさん)旅館は、天明6(1786)年に創業した。今から約600年前、代々当主を務める藤井家の遠祖がこの地できこりをしていたとき、一匹の白猿が木の根元に湧いていた温泉で手足の傷を癒やしているのを見て、そこに仮小屋を建てて一族の天然風呂として使うようになったのが始まりだ。
「温泉旅館は、良いお湯を一族だけで独占せず、他の人にも入っていただこうということで始めたようです。奥羽山脈の中腹にあって交通の便は良くないのですが、名湯として知られ、多くの湯治客に来ていただきました。また宮沢賢治は遠縁にあたり、うちの温泉によく来ていたと聞きます。宮沢賢治による童話の一つに、鉛温泉のことが出てくるんです」と十二代目当主の藤井祥瑞(よしみつ)さんは言う。鉛温泉という名称は、以前この辺りでは金が採れ、それだと年貢が高くなってしまうので鉛が採れるとしたため、この一帯が鉛地区と呼ばれたことが由来だという。「お客さまによく聞かれるのですが、温泉の成分に鉛が入っているわけではありません(笑)」
江戸時代から昭和の初めにかけてのまだ電話がなかった時代、宿泊客は予約することなくやってきた。そのため、200人分しか部屋がないところに千人を超える宿泊客が来たこともあり、相部屋にしたり、廊下に布団を敷いて寝てもらったりしていた。
長期滞在の湯治客が減る中で
温泉での宿泊というと、今は1、2泊が普通だが、かつては1週間以上の長期間にわたって滞在して病気の療養をする湯治客が多かった。藤三旅館を訪れる宿泊客も以前は湯治目的の人が多く、岩手県内の農家の人や、三陸海岸の港を拠点にする遠洋漁業の人などが、毎年同じ時期にやってきた。
「そうするとお客さま同士が顔見知りになって、交流が始まりました。昭和33年には当時のお客さま主催による演芸大会がうちの旅館で開かれ、それからは毎年2月の恒例行事となりました。大勢のお客さまでにぎわい、多いときには300人くらい来て、旅一座の公演を呼んだりしたほどです」
しかし、高度経済成長期以降の人々の生活スタイルの変化にともない、長期滞在する湯治客は徐々に減っていくこととなった。 「私がこの旅館を見るようになった16年前は、数年にわたり湯治をするお客さまもまだいましたが、湯治客の数はどんどん減っていきました。また、毎年来るお客さまもご高齢になり、毎年の演芸大会も3年前に終わりました」
藤井さんは直系ではなく、もともとは分家の3代目である。20年以上前に直系の11代目当主が亡くなり、娘夫婦が後を継いだものの、東京在住でたまに見に来るくらいだったため経営者不在の状態が続いていた。そこで親戚一同が集まり経営状態を調べたところ、倒産寸前であることが分かった。代々続けてきた温泉宿を守るために、親戚のなかで一番若かった藤井さんに白羽の矢が立てられた。
経営改革により集客数が増加
「私も仕事があったのですが、週1回見るだけでいいからと言われて引き受けました。ところが実際には、そう簡単な話ではなかった。そこで元の仕事を辞めて、1年後には旅館の社長に就任して経営に専念することにしました」と藤井さんは振り返る。まず藤井さんが手掛けたのが集客方法の変更だった。インターネットの旅行サイトでの予約が始まったころで、手数料が安いこともあって登録したところ、集客数が増えていった。さらに、料理の質を上げることで宿泊料金を上げ、銀行の融資を受けて温泉施設も改修していった。
「最終的には10年間で売上が以前の3倍くらいになったのですが、そこに起こったのが震災でした。これで宿泊客が激減し、売上が半分になってしまいました」
そこで藤井さんは、これを機に思い切った改革をした。利用が減った湯治客用施設の半分を取り壊し、昨年1月、新たなスタイルの旅館を別邸としてオープンした。
「これからは人口減少で宿泊客も少なくなる。そこで高級な設備とグレードの高いサービスを提供することにしました。もちろん一般宿泊客用の旅館も、湯治客用の施設も残していきます。昔ながらの温泉旅館の良さを残しながらも、今のニーズに合わせていく。その中でお客さまには心と体を癒やしていただきたい。そもそもうちの旅館は、こんな良いお湯だからみなさんにも入ってもらおうということで始まったんですから」
宿泊のスタイルは変わっても、温泉宿の根本は何も変わらない。
プロフィール
社名:鉛温泉株式会社
所在地:岩手県花巻市鉛字中平75-1
代表者:代表取締役社長 藤井 祥瑞
創業:天明6(1786)年
従業員:40名(パート含む)
※月刊石垣2016年10月号に掲載された記事です。
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