虎屋本舗
広島県福山市
新商品開発が店の転機に
福山市で和菓子をつくり続ける虎屋の創業は、江戸時代初めの元和6(1620)年。もうすぐ創業400年を迎える。
兵庫の廻船問屋だった高田宗樹氏が、初代福山藩主となった水野勝成公の要請で、福山城築城のために京都から船で伏見櫓の建築材を運搬。その功により福山で土地を拝領し、菓子匠として創業したのが始まりである。
福山城完成後、茶の湯で献上した菓子を藩主が称賛。藩主により「左義長」と名付けられ、以来、高田家は福山藩の御用菓子司となった。
それから約130年後の江戸時代中期、長い経済不況が続く中、8代目当主の高田助四朗氏は老舗存続のために新商品となる虎模様のどら焼きを開発した。これが評判を呼び、寛延3(1750)年に屋号を「高田屋」から「虎屋」に変更。兼業していた廻船問屋をやめて菓子屋に専念する。16代目当主を務める高田信吾さんは「これがうちにとっては大きな転換期だったのではないかと思います。長く続いているところというのは、大なり小なりピンチというのが必ずある。それをどう乗り越えていくか。運が良かったというのもあるでしょうが、そのときにどういう考えで乗り越えてきたか。後を継いだ者はそこをしっかり見ていかないといけません」と言う。
お菓子で日本を豊かな国に
次に押し寄せてきた大きな波は、昭和20年8月8月の福山大空襲である。1時間10分にも及んだ焼夷弾による爆撃で、市街地は焼け野原となった。
「店も焼けてしまいましたが、地下に倉庫と作業場があったため、店の焼け跡を掘ったら道具やレシピが残っていたそうです。しかし戦後は物資が不足して和菓子どころではありませんでした」
そこで信吾さんの祖父銀一さんは電気商を始め、変圧機などを販売。当時は、国の復興と世の中の需要を考えると、菓子よりも電気製品を売っていたほうが良かったという。
「でも祖父はこう考えたそうです。普通に菓子を食べられるくらいにならないと日本は豊かな国になれない。それならば菓子で日本を豊かな国にしよう、それが自分の役目だと。復興が始まり物資が出回るようになると、掘り出した機材などを使って虎屋の再建に乗り出しました」
無事に店は再建され、信吾さんの父、穣さんが15代目当主として後を継いだ。その長男として生まれた信吾さんは子どものころから店を継ぐ意識はあったものの、若いころはファッション関係の仕事に就いていた。しかし、自身が後を継ぐ時期は、思っていたよりもずっと早く訪れる。
「父が末期ガンということが分かり、27歳のときに戻ってきました。結局、父と一緒に仕事ができたのは1年くらいで、あとは祖父からいろいろなことを教わりました」
店に戻ってからは、菓子づくりと経営の勉強。毎日経営関係の本を読み、製造現場では昔かたぎの職人たちに厳しく鍛えられながら製造工程を学んだ。その結果、3年で全ての技術・ノウハウを修得し、平成7年、当主の座を受け継いだ。まだ31歳のときだった。
「和魂商才」を引き継ぐ
信吾さんは社長になると、店の大改革を断行した。ちょうどそのころ、経営状態が思わしくなく、生き残るためには〝変わる〟必要があったからだ。
「これまで温めてきた自分なりの虎屋のイメージを実現したかった。もちろん自信があったうえでのことですが、自分のやりたいようにやって潰れるなら仕方がないと思ったんです」
固定観念にとらわれずに新商品を続々と出していった。その最初のヒット作が、「虎ちゃん」という自身のニックネームを付けた生どら焼き。そして「たこ焼きにしか見えないシュークリーム」から始まった〝本物そっくりスイーツ〟シリーズは、マスコミで取り上げられ全国的な話題となった。
「社長になってから最初の10年は、一生懸命やっていくだけ。伝統について考えるようになったのは10年がたってからです。結局、経営とは何か、お菓子とは何かという本質の部分を定義付け、守っていけばいい。レシピにこだわり過ぎないことです。時代によって変わるものですから。それよりも、どの時代にあっても変わってはいけないものを守っていかなければいけないと思うのです」
虎屋の商訓は「和魂商才」。和魂洋才からの造語だが、日本古来の精神と商人のチャレンジ精神を表しているのだという。伝統を守る精神とチャレンジ精神をあわせ持つ虎屋本舗は日本の古き伝統を、未来につなげていく。
プロフィール
社名:株式会社虎屋本舗
所在地:広島県福山市曙町1-11-18
電話:084-954-7447
代表者:高田信吾 代表取締役社長
創業:元和6(1620)年
従業員:70人
※月刊石垣2015年11月号に掲載された記事です。
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