強いリーダーシップと独自の戦略で業績を上げ続けている経営者がいる。ものづくりの先頭に立ち、倒産の危機を乗り越えた行動力、あるいは他業種から参画し常に改革と挑戦し続ける実行力……。過去の実績や業界の常識にとらわれない、いわば“異端児”ともいえる経営者の横顔に迫った。
事例1 100年企業が生まれ変わってゼロからの出発で発展していく
アシザワ・ファインテック(千葉県習志野市)
アシザワ・ファインテックは、ナノサイズの微粒子をつくる粉砕機(ビーズミル)を開発・製造している。前社長の時代に下請け工場から産業機械メーカーへと転換したが、現社長は創業100周年を目前にして全社員を解雇し、新たに今の会社を設立した。それは、社長自らが創業者の気概を持ち、理念に共鳴する社員を再雇用して、会社を再出発させる「新創業」であった。
下請けから脱却して製品メーカーに転換する
アシザワ・ファインテックの前身は、1903年創業のアシザワ株式会社である。創業者の芦澤仁吾さんが東京・月島で芦澤鉄工所を創設し、圧力容器やボイラーなどを製造したのが始まりだった。大正時代には蒸気機関車の設計・製造にも携わり、関東大震災や戦時中の空襲による工場焼失を乗り越え、工場を発展させていった。その後の会社の大きな転換について、直系で四代目社長の芦澤直太郎さんはこのように語る。
「二代目までは下請けの工場でしたが、私の父である三代目は、下請けをやっているだけでは会社の将来はないと考え、製品メーカーになるという目標を持って会社の業態を転換していきました。その際にはカリスマ的ともいえるリーダーシップを発揮して、製造する品目を100%変え、社員の98%を入れ替えるなど、父は豪腕とも強引ともいえる経営者でした」
三代目社長がこれからの製品として注目したのがビーズミルと呼ばれる粉砕機だった。この機械は素材を1mの10億分の1であるナノ単位の大きさにまで細かくできる。こうして細かくされたものには素材によってさまざまな用途があり、塗料や医薬品、化粧品、リチウム電池、プリンターのインクなど、多くの産業で使われている。三代目は自らドイツの大手粉砕機メーカーと交渉し、そのメーカーが設計した粉砕機を日本で製造・販売するライセンスを獲得した。
「父のやり方は強引でしたが、そのおかげで粉砕機メーカーへと業態転換できたわけで、感謝しています。しかし、その後に私が入社すると、社内にさまざまな問題のあることが分かってきました」
会社が生き残るために思い切った決断をする
芦澤さんは大学を卒業後、銀行に就職し、1991年に父が経営する会社に入る。それから9年後の2000年に社長に就任した。「ちょうどそのころ、バブル崩壊で製造業の設備投資が落ち込み、当社は赤字と黒字を行き来する状態でした。当時すでに習志野に工場を移転していて、都内にある旧工場の土地を担保に銀行から借り入れをしていたのですが、バブル崩壊で地価が急落して、銀行からは追加融資を出せないどころか、今までの貸出を返すよう迫られました。恥ずかしい話ですが、当時は年間の売り上げの4倍に相当する60億円もの借入金があり、会社がいつつぶれてもおかしくない状況でした」
さらに、社内にも大きな問題があった。製品メーカーにはなったものの、何十年も下請けの仕事しかやってこなかった組織には、営業力も新製品の開発力もなかったのだ。また、納入した製品は不良品ばかりで、得意先からはクレームが押し寄せていた。
「しかし、自分たちでなんとかしようと考える社員はまったくおらず、業績が悪いのは会社や顧客が悪いと言ったり、社長がなんとかしてくれるだろうと考えたりする社員ばかりでした。というのも、父が社長の時代、偉大な経営者である父の言うことに社員は従うしかなく、言われたことはやるが、それ以上のことはやらない組織風土になっていたんです」
そこで芦澤さんは、まず会社の財政面の立て直しに着手した。都内にあった工場の跡地に物流倉庫を建設し、そこから得られる不動産収入で借金を返していくことにした。その建設資金は、銀行からのさらなる借り入れでまかなった。「既存の借入金60億円を返すために、それと同額の60億円を建設資金としてさらに借り入れて借金を120億円にして、それを30年かけて返済する計画でした。金銭的にも期間的にも大きな決断を迫られるものでしたが、そこまでやらないと返せない、唯一の生き残り策でした」
この案件を実現させ、後に残ったのは、本業の赤字体質と社員の無気力の問題を解決していくことだった。
創業100周年を会社が生まれ変わる好機に
芦澤さんはまず、自社の問題を分析した。すると、問題点はすべて社内にあり、中でも一番悪いのは経営者だという結論に達した。「私の中に、後継者だから社長をやっているだけだという、あきらめや甘えがどこかにありました。トップがそんな調子だったら、社員だって一生懸命やらないだろうなと」 そんなことを考えているうちに会社の100周年が近づいてきた。芦澤さんは、これを会社が生まれ変わるチャンスだと考えた。「私にとって100周年はゴールではなく通過点で、新たな時代に向けた再出発でしかない。新たなスタートを切る、つまり新創業を断行する唯一無二の好機だと考えたんです」
そこで芦澤さんは、機械と倉庫の事業を分離して独立採算で自立を図ることにした。アシザワ株式会社は機械製造をやめて、物流倉庫の経営に専念して120億円の借り入れを返済する。別に新会社を設立して、借金も資産もゼロで機械事業を引き継いでいく計画だ。決めたのは100周年を翌年に控えた2002年だった。社員に対しては1年後に会社が機械製造業を終えることを宣言し、会社都合の解雇なので規程に上乗せした退職金を払い、その上で新たな会社をつくるので、私と共に再出発するかしないか、自らの意思で決めてほしいと伝えた。
「その際、新しい会社はみんなの未来を担う会社だから、柔軟な発想で自由に意見が言えるような社風に変えるために、知恵を貸してほしいと頼みました。そうして1年後の03年3月31日付で全員が退職し、翌4月1日に新会社アシザワ・ファインテックが開業しました。結果的に、当時いた60人の社員のうち、58人が戻ってきてくれました」
社員数が倍増し年商も増加仕事にゆとりも生まれる
新たな会社のビジョンを決めていくために、新創業の1年前に若手社員を中心にプロジェクトをつくった。現状認識を共有した上で、会社の理念、自社の技術はどうあるべきか、顧客に対して何ができるか、社員が誇れる会社になるにはどうするべきかということを検討。社名を社員から募集し、会社の方向性を示すスローガンを「微粒子技術で新しい可能性の共創」とした。
「その中で、お客さまの満足度を高めるためには、働く人たちの満足度も高めないといけないことに気付きました。そこで、社員満足を概念として取り入れ、『社員は会社の財産』と位置付けました。単に言葉だけでなく、その財産を磨いていくために、実際に社員の研修や資格の取得を会社がバックアップしています」
アシザワ・ファインテックの創業から15年がたった現在、社員数は当時の58人から倍以上の135人にまで増えている。「年商も、最初は15億円だったのが、今年3月の決算では26億6000万円になりました。社員数は倍増しても年商が倍になっていませんが、それは言い換えると、社員一人一人がゆとりを持って働けている証拠でもあります。また、一番の弱点であった製品開発についても、自社オリジナルの製品を開発することができました」と、芦澤さんは顔をほころばせる。
今の会社の業績は思い描いていた以上に速い展開、高いレベルで実現できているという芦澤さんだが、これから先は世の中の変化にうまく対応していくことが重要になってくると語る。
「これからは加速度的に世の中も技術も変化し、それに合わせてわれわれも製品や技術、会社の仕組みを変えていく必要がある。当社もこれまで変革してきて今があるのだから、新しい時代のために良いと思ったことは、どんどん挑戦してほしいと、社員には伝えています」
新たな経営理念に共鳴した若い社員たちが原動力となって会社を発展させていく。そんな会社が次の100年をまた生き残っていくことができるのだろう。
会社データ
社名:アシザワ・ファインテック株式会社
所在地:千葉県習志野市茜浜1-4-2
電話:047-453-8111
代表者:芦澤直太郎 代表取締役社長
従業員:135人
※月刊石垣2018年8月号に掲載された記事です。
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