全国各地に残る城の多くは、今では天守閣がなかったり、あったとしても復元建造物だったりする。しかし、石垣は当時のまま残っているところがほとんどだ。その石垣をつくっていた職人たちを穴太衆(あのうしゅう)といい、かつては全国にいた。だが、築城が減るにつれその数も激減し、今では粟田建設のみがその技と伝統を継承し続けている。城の基礎となる石垣づくりについて話をうかがうため、十五代目穴太衆頭の粟田純徳さんを訪ねた。
石垣をつくる専門集団
粟田建設がある滋賀県大津市坂本は、琵琶湖の西岸、日本の天台宗の開祖である最澄が788年に開創した延暦寺がある比叡山のふもとの門前町である。ここには延暦寺の僧侶たちが住む里坊が数多くあり、比叡山や里坊の石垣づくりを、この地の石組み職人たちが行っていた。職人たちの拠点が穴太という地名だったことから、彼らは穴太衆と呼ばれていた。
「穴太衆は石垣の石組みを専門に行う集団です。ルーツは渡来系で、5、6世紀に日本に来たようです。うちも、先祖の名前が分かっている江戸時代初期から数えると十五代目ですが、さかのぼれば、実際にはもっと長く続いています」と、粟田純徳さんは職人らしい朴訥(ぼくとつ)な口調で穴太衆の成り立ちを語る。
穴太衆の技術の高さは戦国時代以前から知られていたが、高い評価を得るようになったのは16世紀後半、織田信長が琵琶湖の東岸に建てた安土城の城づくりに携わったことからだった。以来、城づくりに穴太衆は欠かせない存在となり、いつしか石垣を組む職人のことを穴太衆と呼ぶようになった。今も残る城の大半は穴太衆の手によるものといわれている。穴太衆による石垣は、石を加工することなく自然の形のまま組んで積み上げていく野面積(のづらづみ)が特徴で、穴太衆がこれを得意とすることから、穴太衆積みとも呼ばれている。
「穴太衆は家ごとにいろいろな集団に分かれていました。うちも当初は石工(いしく)の一人で、江戸時代の後半に家として独立して、粟田家としてやるようになりました。ただ、江戸時代中期になると城をつくることがほとんどなくなったので、仕事はどんどんなくなり、穴太衆の数も減っていきました。うちは比叡山延暦寺をはじめ周辺のお寺や神社の石垣を手掛けていたので、仕事が切れずに生きながらえてきました。石垣以外に一般土木や建築などもやっていたようです」
そのようにして、多いときには全国に300人はいたといわれる穴太衆も次々に廃業していき、現在も残っているのは粟田建設1社のみとなった。
「石の言葉を聞け」
穴太衆積みにマニュアルはない。すべて口伝であり、自分の目で見て覚え、やって覚えるしかない。自然の石が相手なので、どれ一つとして同じ形のものがなく、石垣をうまく積んでいくには経験がものをいうからだ。粟田さんは子どものころから後を継ぐことを自分で決めており、中学校を卒業するとすぐに、人間国宝である祖父の粟田万喜三さんに弟子入りし、穴太衆積みを学んでいくことにした。
「小学生のころから祖父に現場に連れて行かれていたので、後を継ぐのは自然な流れでした。当時は今みたいに安全面で厳しくなかったので、子どもが現場で遊んでいても何も言われない時代でしたから。夏休みや春休みには、一緒に遠くの現場に出張に連れて行かれていたので、もうほとんど洗脳でしたね」と粟田さんは笑う。
とはいえ、子ども時代の遊びの場と弟子として入った修業の場では、現場の様相が予想していたのとは全く違っていたという。
「祖父は明治生まれの昔気質の職人なので、そりゃあ厳しかったです。現場ではいっさい名前で呼んでもらえず、だいたいはコラ、ボケ、カス(笑)。手取り足取り教えてくれるのかなと思っていたら、受けるのはゲンコツばかりで、技は教えられるのではなく、見て盗めと。それが続いていくうちに、やっぱり途中で嫌になったりすることもありました」
それでも、粟田さんは祖父の仕事ぶりや言葉から穴太衆積みについて多くを学んでいった。その一つが、先祖代々伝わる言葉「石の言葉を聞け」だった。
「祖父の仕事を見ていると、本当に石が『ここに置け』と話しているかのようにポンポンはまっていく。祖父はいつも石を見ていて、現場に着くとまずそこに残っている石を全部見て、昼飯後すぐにまた石を見ていました。どの石がどこに入って、その次はこれと、将棋のように何手も先を読む感じで考えながら見ていたんだと思います。それを見習い、僕も石をずっと眺めるということを常にやっています」
裏側の石詰めのほうが重要
穴太積みにはマニュアルはおろか、設計図もない。すべては粟田さんの頭の中にあるのだという。
「頭の中で図面をつくったら、採石場でそれに合う石を選びます。とはいえ、実際に石を組んでいくと、なかなか頭の中の図面どおりにはいきません。例えば100個の石でつくる石垣なら、100個の石を買って組んでいき、石を一つも余らせずに完成させるのが究極の仕事です。でも実際には、うまく合わない石があったり、合う石がなかったりします。予備で多めに石を買って組み上げていき、完成したときに残った石の数が少ないほど腕がいい職人なのです」
また、石垣は表面側の石組みに目がいきがちだが、実際には目に見えない裏側の石組みのほうが重要だという。これがしっかりしていないと、何百年ともつ石垣をつくることはできないからである。
「城の石垣は天守閣の土台ですから、穴太衆積みで一番重要なのは強度で、見た目が良くなくても、長持ちする石垣をつくらなければならない。ですので、裏側の石詰めも手作業で丁寧に行っています」
粟田さんは修業中、祖父の万喜三さんから、穴太衆積みは人間社会にもつながるところがあると、よく言われていたという。
「石垣を組んでいくには、大きい石もあれば小さい石もあり、きれいな石もあれば形の良くない石もある。これは人間社会と一緒だと。一人一人に役割があるのと同じで、どんな形の石にも必ず役割があって、無駄なものは一つもないのだから、上手に組み合わせてあげなさいと言われていました」
粟田建設では、城や寺社、個人宅の石垣づくりと修復を行うとともに、海外の日本庭園などでの石垣づくりを請け負うことで、石垣を世界に広げ、穴太衆積みの技術を残していく努力を続けている。
「僕には息子がいるのですが、将来、息子が継いでくれるという仮定で、いろいろと模索しています。海外進出もその一つで、日本人は海外で評価を受けた自国の文化を見直してくれるので、穴太衆積みの良さも見直されればと思っています」
穴太衆積みの石垣は、300年、400年先まで崩れないことで初めて評価される。そのときに、つくった本人はもうこの世にいない。それでも、穴太衆積みを後世に伝えていくために、粟田さんは堅固な石垣をつくり続けていく。
粟田 純徳(あわた・すみのり)【第十五代目穴太衆頭】
株式会社粟田建設社長
1968年、滋賀県生まれ。中学を卒業後、江戸時代初期から城の石垣をつくっている家業を継ぐべく、祖父で十三代目の粟田万喜三(まきぞう)に弟子入りし、石垣づくりの修業をしていく。2005年に十四代目の父・純司の後を継いで十五代目を継承し、社長に就任。以来、従業員3人を率いて石垣づくりや修復などを行うとともに、土木工事、造園工事なども請け負い、石垣づくりの技と伝統の継続に努力している
写真・加藤正博
最新号を紙面で読める!