森菊商店
大分県日田市
地元産の山の幸を販売
日本におけるシイタケの栽培は、江戸時代初期に豊後国(現在の大分県)の炭焼き源兵衛が始めたという説がある。それから約400年後の現在、大分県の干しシイタケの生産量は国内総生産量の4割以上を占め、全国一を誇っている。その大分県の内陸部、日田市にある森菊商店は、明治5(1872)年に初代の森菊市が創業した。以来150年近くにわたり、地元産の干しシイタケの取り扱いを続けている。屋号の森菊は、創業者の名前からきている。
「創業当初はシイタケ以外に、和紙の原料となるミツマタやコウゾ、お茶なども扱っていました。菊市はお店以外に株の取引もやっていて、そちらでもうけたという話も聞いています」と語るのは、五代目で社長の森俊明さんの妻である万里子さん。万里子さんは三代目の娘で、男の兄弟がいなかったことから、婿養子として俊明さんを家に迎え、店を継いだ。
明治から大正にかけては地元の産物である竹の皮やタケノコ、山菜なども扱うようになり、昭和8(1933)年に長男の繁松が後を継ぎ、二代目森菊市を襲名した。
「二代目の長男の勝美(かつみ)が私の父で、後を継がずに教師になるため、大分の師範学校に入ったのですが、二代目がそれを許さず、昭和30(1955)年に三代目として渋々店を継ぐことになりました。それでも親の目を盗んで、ときおり代用教員として学校に教えにいっていたそうです。でも、そんな性格だったので、商売が下手で苦労したようです」
通信販売で販路を広げる
昭和40(1965)年、シイタケ相場が暴落し、商社との取引がなくなったのを機に、有限会社森菊商店に組織化した。社長には、二代目の長女で、三代目にとっては姉にあたる恵美子が四代目として就任した。三代目は会社に残り、店を手伝っていった。ここから森菊商店は商売を大きく広げていく。
「恵美子は私のおばになりますが、それまで波乱万丈の人生を送ってきました。男勝りの性格で、父親と反りが合わず、16歳で女学校を卒業すると、家を出て一人で満州に渡って満鉄(南満州鉄道)の経理として働いていました。終戦になってソ連が攻めてきたときもまだ満州にいて、頭を丸坊主にしながら、終戦翌年にやっとの思いで京都府の舞鶴港に船で戻ってきたそうです」と万里子さんは言う。
恵美子は日本に引き揚げてきたあと、満州で出会い結婚を約束していた男性の元に向かったが、しばらくして一人で戻ってくると、家の商売を手伝っていた。そして店が会社組織になると同時に、弟に代わって社長になったのだった。
「恵美子は社長になると、新たに通信販売を始めました。それが当たり、高度成長期の波に乗って売り上げを伸ばしていきました」
しかし、平成に入ると工場で栽培された生シイタケが出回るようになり、干しシイタケの需要が減少していった。しかし干しシイタケは、クヌギなどの原木にシイタケ菌を打ち込み、山中で2年以上かけて自然栽培したものを乾燥させており、工場栽培のシイタケに比べて、うま味も栄養価も優れているのが強みだ。
シイタケ健康商品も開発
「バブルが弾けたころに安い中国産が入ってきて、それを国産と混ぜて販売していたところもありました。でも、うちは一貫して大分産を中心とした九州産だけを取り扱ってきました」と、社長の俊明さんはきっぱりと言う。俊明さんは万里子さんと見合い結婚をして昭和50(1975)年に入社し、平成11(2003)年に五代目として社長に就任した。それから間もない15年に国内では干しシイタケの産地偽装問題が起こったが、実直な商売を続けていた森菊商店が、顧客の信用を失うことはなかった。
一方で干しシイタケの需要そのものは減りつつある。そこで俊明さんは新商品開発を始め、干しシイタケを粉末にした商品を発売すると、健康食品として徐々に顧客の間に浸透していった。
五代目夫婦の4人の子どもは全て娘だが、三女の聖子さんが、結婚後しばらくしてから夫と一緒に地元に戻り、後を継ぐことにした。
「私が継がなければ店がなくなってしまう。実家に帰ってきたときに森菊の看板がないのは考えられないので戻ってくることにしました」と、娘の北島聖子さんは言う。聖子さんは店を手伝いながら、六代目となるべく準備を進めている。
「店を改装して持ち帰りやイートインのスペースを設け、うちで扱う素材を使った中華ちまきやつくだ煮を販売しながら、店を続けていきます。姉たちが帰郷したときに、森菊の看板が見られるように」
三代にわたる顧客もいるという森菊商店の看板は、実直な商売でこれからも守り続けられていく。
プロフィール
社名:有限会社森菊商店(もりきくしょうてん)
所在地:大分県日田市隈2-8-13
電話:0973-22-2671
代表者:森俊明 代表取締役
創業:明治5(1872)年
従業員:3人
※月刊石垣2020年12月号に掲載された記事です。
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