Jリーグ・鹿島アントラーズの中心選手として数々のタイトル獲得に貢献してきた小笠原満男選手。ワールドカップに2回出場し、イタリア・セリエAでプレーするなど国際経験も豊富だ。一方、2011年の東日本大震災後は、出身地である岩手県をはじめ被災地の支援活動に尽力している。
サッカーだけでなく生活面も学んだ高校時代
父親が社会人チームでプレーしていたこともあり、保育園児のころから試合についていったり、近所でサッカーボールを使って遊んでいた小笠原選手。小学校3年生のときに地元のチームに入団する。 「今のようにテレビで海外のサッカー中継が見られるわけでもなく、スターといえばキャプテン翼でした。中学生のときに開幕したJリーグも最初は何なのか理解できなくて、『すごいことが始まったな』くらいにしか思いませんでした」 高校は盛岡市内の実家を離れ、大船渡高校に進学する。地元の盛岡商業高校を全国高校サッカー選手権に何度も導き、当時、大船渡高校に赴任していた齋藤重信監督の下で選手として成長し、全国でプレーしたいと考えたのだ。 小笠原選手は齋藤監督の家で他の生徒と3人で下宿生活を送る。 「齋藤監督に言われたことは、ほとんど生活面のことでした。朝食に昼の弁当、夕食と、監督が一人でつくってくれたのですが、自分たちで食器を片付けて洗い、テーブルをきれいに拭き、風呂やトイレの掃除も分担していました。食事を残さず食べるとか靴をきれいに並べるなど厳しく言われたし、テレビも禁止で『テレビが見たい』と言うと教科書を読め、『コンビニに行ってジュースが飲みたい』と言うと牛乳を飲め、『お菓子が食べたい』と言うと米を食え(苦笑)。最初の一週間で脱走したいと思いました。中学生のときに少し反抗期があって、親元を離れて自由になれると思っていたのが、すぐに親のありがたみが分かりましたね。でも今思えばすごくいい経験をさせてもらったし、一人でも生活できるようになりました」
あえて厳しい道を求め鹿島アントラーズに入団
大船渡高校では1997年に全国高校サッカー選手権に出場しベスト16進出。大会優秀選手に選出され、卒業後はJリーグ屈指の強豪・鹿島アントラーズに入団する。声を掛けてくれた複数のチームの中からアントラーズを選んだ一番の理由は「強いチームだから」だという。 「先輩や同期の選手との競争が厳しく楽な道ではないと思ったし、スカウトからも『そんなに簡単に試合に出られるチームじゃない』と言われました。高く評価してくれたチームや、すぐに試合に出場できると言ってくれたチームもありましたが、『このチームで試合に出られるようになれば日本代表も見える』というスカウトの言葉に惹かれました」 毎年のようにタイトルを獲得しているアントラーズ。強さの秘密はどこにあるのだろうか。 「優勝しても誰も満足しないし、すぐに次の試合に勝とう、別のタイトルも狙おうと考える意欲があります。それにユースやオリンピック代表、大学ナンバーワンといった実績のある選手ばかりなので、普段の練習から競争意識が高い。ポジションをつかめば海外に行けるチャンスがあるチームだし、実際に海外のクラブに移籍した選手は自分も含めて何人もいます」 そう話す小笠原選手も、高校生のころから世代別の日本代表に選ばれ、99年にはナイジェリアで開催されたワールドユース選手権(20歳以下の世界大会)で準優勝した。同選手権の監督は、2002年の日韓ワールドカップで日本代表を率いたフィリップ・トルシエ氏だった。 「トルシエ監督には『日本人は甘い。食事が違うとか、グラウンドや芝生、ボール、用具など注文が多いが、アフリカの選手はどんな環境でも戦っている。日本は恵まれすぎている』とよく言われました。ワールドユースの開幕前に合宿したブルキナファソでは、水は出ないしタオルは泥で汚れている、エアコンも効かないようなホテルに泊まりました」
日本にはない経験ができたイタリアでの一年間
2002年に日本代表に選出されると、同年と06年のワールドカップに出場。06年8月からは、イタリア・セリエAのメッシーナで一年間プレーした。 「イタリアの選手は競争意識が強く、練習も人を蹴落としてでも這い上がろうという姿勢で、喧嘩になることもよくありました。上下関係や先輩を立てるといった、日本では美徳とされていることが海外は真逆だと感じましたね。バイキングの食事のとき、試合に出ている人を優先して後で取りに行ったら肉料理が残っていなくて、スタッフに聞くと『もうないよ』と言われてしまいました(苦笑)」 一方、生活面は楽しく過ごせたと振り返る。 「最初は不便に感じることもありましたが、慣れてくると楽に過ごせました。イタリア人はラテン系でのんびりしているし、少々のことは気にしない。人生を楽しんでいる感じが好きでした。スーパーへ買い物に行っても最初はイタリア語が分からなくて苦労しましたが、少しずつ言葉を覚えて伝わるようになるのが楽しかったですね」 07年7月にアントラーズ復帰後は、同年から09年シーズンまでJリーグ史上初の3連覇達成に貢献。09年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞した。
震災直後から被災地で支援活動を続ける
2011年3月11日に発生した東日本大震災。小笠原選手の出身地である岩手県をはじめ、東北地方は甚大な被害に遭った。 「頭の中が真っ白になって、何が何だか分からずパニックになりました。テレビの映像に映っているのはごく一部の地域だし、電話しても誰も出ない……。すぐに現地に行きたかったけど状況が分からなくて、気が気でなかった」 震災直後は食糧などの支援物資を持って被災地を訪れ、親戚やお世話になった人たちに届けていた。だが被害の範囲は想像以上に広く、一人でできることには限界があると感じたという。同じように感じていた東北出身の選手たちと何かできることはないかと相談していたとき、津波でボールやスパイク、ユニフォームを流され、サッカーがやりたくてもできない子どもがたくさんいると聞いた。 「それなら自分たちが力になれると思いました。すぐに周りの選手に声を掛け、できる限り用具を提供してもらって届けました」 その年の5月には、小笠原選手ら東北6県出身の選手が発起人となり「東北人魂を持つJ選手の会」を立ち上げた。被災地を訪れた選手は、サッカー教室などを通じて子どもたちと触れ合っている。 「サッカーをしているときはみんな元気にボールを蹴っているけど、津波で両親を亡くした子や仮設住宅で暮らす子も少なくないと聞いて心が痛くなりました。楽しそうにしている姿を見て、できる限り活動を続けたいと思いましたね」 サッカー教室の最後には質問の時間を設けているが、「どうすればサッカーがうまくなりますか?」と聞かれることが多いそうだ。 「いつもは、いっぱい練習して一生懸命頑張ればうまくなれるし、自分もそうやってきたと答えていますが、『練習したくてもグラウンドに仮設住宅やがれきがあって、できる場所がない』と子どもたちが話していました。ボール一つあれば世界中どこでもできるのがサッカーなのに……。そこで、サッカーができる場所をつくってあげたいと思って立ち上げたのが『岩手グラウンドプロジェクト』です。昨年、大船渡市内にグラウンドが完成し、サッカーだけでなく野球や他のスポーツ、運動会などみんなが使える場所として無料で開放しています。多くの人に募金してもらい、トイレや更衣室もつくりました」
子どもたちに夢を持ってほしい
物資、イベント、グラウンドと形を変えながら支援してきた小笠原選手は、まだまだやらなければならないことは多いと話す。 「いまだに仮設住宅での生活を強いられている方はたくさんいます。夏は暑いし、冬は寒さが厳しく結露やカビも発生するそうです。赤ん坊が夜に泣くと隣に迷惑だからと車に連れていって泣き止ませたり、テレビの音が隣に漏れないように小さくしたり、常に周りに気を遣いながら生活されていると聞きました。仮設住宅から完全に出られるようになるまで最短でも2年はかかると聞いていますし、先行きが見えないのは本当にきついことだと思います。住宅だけは何とかしてほしいですね」 お世話になった人たちの力になりたい、恩返ししたいという思いで活動してきたと話す小笠原選手は、子どもたちには夢を持ってほしいと語る。 「自分にできることは一緒にサッカーをして触れ合い、喜んでもらうこと。その中で将来の目標を見つけたり、楽しかった思い出を今後の生活を頑張る力に変えてほしいと思っています」
小笠原 満男(おがさわら・みつお)
サッカー選手
1979年岩手県盛岡市生まれ。県立大船渡高校卒業後、鹿島アントラーズ入団。2006年8月から07年7月までFCメッシーナ(イタリア)に所属。アントラーズではJリーグ優勝6回、ヤマザキナビスコカップ優勝4回、天皇杯優勝3回など数々のタイトルを獲得。Jリーグベストイレブン6回、09年にはJリーグ最優秀選手賞を受賞。2002年、06年FIFAワールドカップ日本代表
写真・岩本卓也
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