米国式の酪農で創業
札幌市に隣接する江別市の牧場で、乳牛の育成や牛乳・乳製品を製造している町村農場は、大正6(1917)年に石狩町樽川で創業した。 「もともと福井県出身であった私の曽祖父・町村金弥が北海道に渡ってきたことがきっかけとなりました。明治初めに東京に奉公に出され、そこで勉強した後、札幌農学校に入学。卒業後は今の北海道庁の公務員として、官営農場の真駒 内牧牛場(まこまないぼくぎゅうじょう)に就職したと聞いています。このときに生まれたのが私の祖父で創業者となる敬貴です」と、町村農場社長の町村均さんは説明する。その敬貴さんが、ホルスタインを購入し、牧場を開いたのが同社の始まりだった。
牧牛場の官舎で生まれ育った敬貴さんは、子どもの頃からの牛好きが高じて札幌農学校に進むと、卒業した翌年には移民船に乗って米国に渡り、ウィスコンシン州の牧場で酪農を学んだ。そこから現地の農科大学に進み、卒業後は再び牧場で働いた後、日本に帰国した。米国での滞在は10年にも及んだ。 「当時、曽祖父は陸軍省の農事選任技士を退職し、東京に住んでいました。そのため、帰国した祖父は中野で牛を飼い、搾ったミルクを売っていたようです。でも、それは祖父がやりたい酪農ではなかった。そこでその翌年、生まれ育った北海道に戻り、曽祖父が持っていた石狩町樽川の土地に牧場を開きました。それを町村農場の創業年としています」
危機を回避し乳製品を製造
「牧場では主に、乳牛を繁殖し販売する事業で生計を立てていました。一方で、祖父は米国での実習中にバターやアイスクリームのつくり方も学び、その製造装置も持ち帰っていたので、牧場を開いた翌年からバターづくりを始め、評判は上々だったようです。これが、酪農をやりながら牛乳・乳製品を加工して販売するという、現在の事業の元になっています」
石狩で10年間、牧場を続けてきたが、実は土壌がやせており、気候も非常に厳しい土地柄だった。そのため、昭和3年に札幌市の東隣にある江別市内に牧場を移転したという。 「牧場には酪農を志す農家の息子さんが数十人、実習に来ていました。牧場の維持にお金が必要になりますが、祖父は育てた牛がかわいくて売りたくない。そこで、祖父が牛の買い付けの出張でいない間に祖母がどんどん売り払った(笑)。当時の実習生から『町村農場は何回もつぶれそうになったけど、そのたびに救ったのはおまえのおばあちゃんだ』という話をよく聞かされました」
祖父母の間には7人の子どもがおり、末っ子の三女が牧場を継ぐことになった。そして、かつての実習生の一人と見合い結婚。それが町村さんの両親である。 「父も祖父と同じく、ウィスコンシン州の牧場で3年間実習した後に帰国し、母と結婚して牧場で働き始めました。まだ祖父が牧場の代表者だったので、そこに就職した形です」
素材の力を信じて事業拡張
その頃、国策により北海道で酪農の殖産が進められ、乳牛の改良は高度化し、いち牧場が手掛けるレベルを超え、また、乳牛の価格も下落したが、43年から瓶牛乳の製造を始めている。 「札幌が発展するにつれて隣の江別市も人口が増え、やがて牧場周辺が市街化区域の指定を受けることが決まりました。このため牧場を続けることが難しいと判断し、今の場所に2度目の引っ越しをしました。今から32年前のことです」
町村さんは3男1女の三男で、次男の兄が牧場を継ぐことになっており、新たな牧場の設計はこの兄が進めていった。それは、作業性が良く、省力化された欧米で主流の畜舎の思想を取り入れたもので、牛乳・乳製品の工場も規模を大きくしていた。 「ところが、移転に関する役所への申請を進めている最中に、兄が突然亡くなってしまいました。これからというときに一番重要な人がいなくなり、私はそのとき東京で働いていたのですが、これは自分が継ぐしかないと思いました」
30歳で牧場に戻ってきた町村さんは、地元の大学で聴講生として酪農を学ぶ一方、製品製造にも力を入れていく必要があった。その後は、牧場のスタッフの協力を得て、苦労しながらもバター、アイスクリーム、ヨーグルトと、徐々に商品開発を進めていった。 「17年前に東京に直営店を出したのに合わせて、チーズの製造も始めました。牧場をこれ以上拡大することは難しいので、今の規模を維持しながら、事業の幅を広げていきたいと考えています」
同社は自分たちが持つ素材の力を信じて、牛乳と乳製品の可能性を探り続けていく。
プロフィール
社名 : 株式会社町村農場(まちむらのうじょう)
所在地 : 北海道江別市篠津183
電話 : 011-382-2155
HP : https://machimura.jp
代表者 : 町村 均 代表取締役
創業 : 大正6(1917)年
従業員 : 134人(パート・アルバイト含む)
【江別商工会議所】
※月刊石垣2025年1月号に掲載された記事です。