元メジャーリーガーの岩村明憲さんが社長兼監督を務める福島レッドホープスの事務所は、福島県郡山市の住宅街に溶け込むようにある。そこは、「とにかく福島のために」と書かれたカレンダーが飾られるなど、地元愛が燃えたぎるような空間だった。5年前、東京ヤクルトスワローズを自由契約となった岩村さんは、独立リーグで第二の人生を歩み始めた。「福島でなければ断っていただろう」と語る岩村さんの、福島にこだわる理由に迫る。
球界の名だたる監督の教えを教訓に
岩村さんの生まれは愛媛県宇和島市。母は美容院を営んでおり、美容師の世界大会に出場するほどの腕前だった。「人口約8万5000人の片田舎で育つ子どもが、“世界”を意識するのは簡単ではないが、母が僕の視野を広げてくれました」
のちに近鉄バッファローズ(当時)に入団した2歳上の兄・敬士さんを追いかけるように野球に夢中になり、地元の宇和島東高校で上甲正典(じょうこうまさのり)監督の指導を受けた。「とにかく厳しい監督で、4打数4安打で3本ホームラン打っても、残りの1本がツーベースだと叱られました。年に500回は野球を辞めたいと思ったが、なにくそという気持ちで踏ん張った」
かねてから掛布雅之氏の大ファン。同氏のプレースタイルをまねして左打者に転向したほどだ。「いつかは阪神で」と夢見た時もあったが、「ドラフトで指名してくれたヤクルトには感謝している。日本一の選手になってやるという思いでした」。
2001年、「ミスタースワローズ」の象徴である背番号1を継承した岩村さんの活躍もあって、ヤクルトは日本一になった。しかし、岩村さんの心は乾いていた。「あくまで主役は、稲葉篤紀、ペタジーニ、古田敦也の3、4、5番でした。僕が中核に入りチームを優勝させたいという気持ちが強かったが、なかなか……」。次第に、メジャーリーグに気持ちが向くようになる。
夢をかなえるためには、「ポスティングシステム」という段階を踏まなくてはならなかった。岩村さんは、当時の球団社長に直談判した。2カ月に一度はランチに誘い、食事そっちのけで夢を語った。社長は真剣に耳を傾けてくれたが、“直談判”はスムーズにはいかなかった。その当時、野球界は04年に起きたストライキ事件の余波で揺れていた。そんな中、選手兼任監督の二役を担ったのが古田氏だった。「古田さんにチームに残ってほしいと言っていただき、予定より1年長くヤクルトに残りました。思えば古田さんの背中を間近で見つめたあの1年があったからこそ、僕は今、前を向けるんです」と岩村さんは深呼吸するように語った。
「野球は結果が全てです。プレイングマネージャーは、まずは選手として結果を出さなければなりません。でないと『指導する言葉の効力』がなくなるからです」。古田氏は捕手出身者だ。周囲は守りを固める戦略を練ると踏んだが、古田氏は攻撃的な野球を展開し、チームを3位に導いた功労者だ。
そして4年前、岩村さんも福島でプレイングマネージャーに挑戦した。「NPBと独立リーグのピッチャーのレベルは歴然です。“打って当たり前”と言われる中で、プレッシャーに打ち勝てたという自負が、僕にはあります。野球を通して生き方を学んでいます」
仙台に残した思いは福島で取り返す
11年、米国から復帰した岩村さんは、「約20年の野球人生の中で、最もつらかった」という苦悩の時期を迎える。その2年前、米国でスライディングを受けけがを負った岩村さんは、再起をかけて仙台を拠点とする東北楽天イーグルスに入団した。
兵庫県内でのオープン戦の最中に、東日本大震災が発生。1カ月後、宮城県に戻り、被災者を激励するため、名取市閖上(ゆりあげ)地区を訪れたというが、変わり果てたまちや人を目の当たりにして言葉を失った。何より気掛かりだったのは、子どもたちだった。岩村さんは震災孤児となった子どもたちにあたたかいパーカーの差し入れをするなど、自分にできることは何かと模索した。
「見せましょう、野球の底力を」。これは、同年4月2日に復興支援のために行われた慈善試合で語った嶋基宏選手(現・東京ヤクルトスワローズ)の言葉である。岩村さんも使命感に燃えたが、それがかえってプレッシャーになり打てない時期が続いた。「今やらないで、いつやるんだ!」。何度も自分を鼓舞したが、楽天での2年間は不振にあえいだ。その後、古巣のヤクルトに戻ってからも、被災地を思うと胸が痛んだ。ヤクルトを自由契約となり、「福島のために一肌脱いでくれないか」とオファーを受けたのが14年のこと。浮かんだのは被災者の顔だった。断る理由などなかった。
「一度食べに来て!」野球と食で復興支援
「この6年ですっかり福島県民になりました」。こんがりと日に焼けた岩村さんは笑顔だった。3年間のプレイングマネージャーを経て、現在は社長兼監督として、福島を盛り上げる。
けれど、独立リーグ福島にはNPBやMLBのように恵まれた環境はない。「今の僕は、野球を見に来てくれとは言いません。福島の肉を食べに来てほしいと言います。先日も球場の外で肉フェスを開催して盛り上がりました」。岩村さんは、食とスポーツを掛け合わせることで被災地の風評被害払拭(ふっしょく)につながればと考えているのだ。
岩村さんは現在、福島県西会津応援大使を務めている。「初めてだったんです。球場使用料を無料で貸し出してくれただけでなく、お金はいらないから福島の子どもたちに野球教室をやってくれと応援団までつくってくれたのが西会津の自治体でした。以後、協力してくださる自治体が少しずつ増えていったんです。会津のお米、めちゃくちゃうまいです。食べたら分かりますよ」
「独立リーグの役割は一つではない」と岩村さん。選手を育成しプロに送り込むだけでなく、地域企業への人材確保にもつながる。現に、福島レッドホープスを退団した他県の選手が、地元には帰らず福島で就職したというケースがあるそうだ。実は、福島レッドホープスのスタッフで福島出身者は一人だけ。そこに意味があるという。「外からやって来た人間が、必死で福島のことを熱く語ってみな。思いは伝わるから」と、繰り返しスタッフに伝えている。
さて、20年は、世界の視線が福島に集まる。3月にスタートする聖火リレーの出発地であり、7月の東京五輪では野球とソフトボールのオープニングゲームが行われる。「僕は野球の神様はいると信じています。向上心を持って取り組めば奇跡は起こるんです。絶対に」。そんな岩村さんの好きな色はチーム名にも入れている「レッド」。今日も、野球を通した復興支援に情熱を燃やしている。
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岩村 明憲(いわむら・あきのり)
福島レッドホープス社長兼監督
1979年愛媛県生まれ。愛媛・宇和島東高からドラフト2位で97年にヤクルトスワローズ入団。2007年に米大リーグのレイズ(当時デビルレイズ)に移籍。主に二塁手を務め、08年はワールドシリーズ出場。その後パイレーツ、アスレチックスに在籍し、11年に日本の東北楽天イーグルス入り。通算成績は日本で1194試合に出場して1172安打、193本塁打、615打点、打率2割9分
写真・後藤さくら
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