20歳の時に車いす生活を余儀なくされた西村柚菜さん。だが、逆境をものともせず、翌年にはパラ陸上競技を始め、2つの日本記録を樹立した。2025年には車いすラグビーにも挑戦し、26年には日本代表強化指定選手に選ばれる。10月開催の愛知・名古屋アジアパラ競技大会、そして2年後のロサンゼルスパラ五輪に向け、コートを熱く、激しく、駆け巡る。
サッカー一筋の人生から一転
人は生まれる前に、人生の青写真や大まかな脚本を決めてくる。そんな一説を聞いたことはあるだろうか。もしそうだとするなら、西村柚菜さんの設定はかなりダイナミックだ。
西村さんは4歳の頃からサッカーを始め、小学生になると男子に交ざってボールを追いかけた。高校はサッカーの強豪校に進んで全国大会を経験し、将来はサッカーに関わる仕事をしたいと、保健体育の教育免許を取得すべく大学に進学した。だが、大学2年生の実技講座中のアクシデントが、人生を百八十度変えた。
「マット上でハンドスプリングという前向きのバク転(後方転回)のような技を練習していました。その時、失敗して首から落ちてしまったのです。直後はむち打ち損傷程度の痛みで、その後も普段どおりに部活に参加しました。うまく走れない、ふらつくなどの症状はあったものの、バイトを掛け持ちする過密スケジュールで疲れが出たのかなと思う程度でした。それが10日たった朝、首から下が全く動かなくなってしまったのです」
診断されたのが「外傷性脊髄梗塞」。症例が少なく、たまたま脊髄外科の先生が居合わせて判明した。
「手術対象外の保存療法で、約5カ月間入院することになりました。入院して2週間後には伊豆の山奥にある病院に移ってリハビリをしながらの入院生活です。いろんなリハビリをしましたが、印象深いのは900mの坂を車いすで1日3往復したことです。後から聞いた話ですが、担当の理学療法士さんが、私がパラアスリートになる可能性を感じてつくった特別メニューだったそうです。当時はずいぶんハードだなと思っていたので、やっと腑に落ちました」とくすりと笑う。
だが、歩けるようになると思っていた西村さんは、退院直後に今後も車いすが必須であることを知った。
「正直、その時が一番ショックでした。でも、悲観しても現実は変わりません。気持ちを切り替えて、早速スマートフォンでパラスポーツの情報を集めていました」
引きつけられたのが、パラアスリートの土田和歌子さんだった。
パラアスリートに憧れて
土田さんはスピードスケート、陸上競技、そしてトライアスロンと競技種目を広げ、好成績を残してきた、日本を代表するパラアスリート。パラリンピックに夏冬合わせて9回出場し、金銀銅のメダルを獲得したレジェンドだ。23年1月に退院した西村さんは、6月に岐阜で開催されたジャパンパラ陸上競技大会で、土田和歌子さんの勇姿を目に焼き付けた。会場の熱気、車いすを使っている人の多さに刺激を受け、パラ陸上競技を「私もやる!」と即決した。
「大会で出会った選手に相談すると、障がい者スポーツ支援施設『横浜ラポール』を教えてくれました。そこで初めてレーサー(陸上競技用の車いす)に乗ったのですが、正座に近い姿勢になるので乗り込むのも一苦労でした」
そんな状況からわずか3週間後、西村さんは〝選手〟として国立競技場のゲートをくぐった。
「周囲から『やってみたら』と背中を押され、勢いで出場しました。100m真っすぐ走れたことがとにかくうれしくて。その後も土日は母の車で、平日は新幹線で、週3回、静岡から横浜ラポールに通いました」
電車を使っての移動は、駅にエレベーターがなかったり、あっても車いすでは入れないサイズも多い。
「エレベーターが混みすぎて、何度も見送ることも少なくありません。乗る電車を事前に駅に伝えていて、余裕を持って出かけていますが、時間を取られて焦ることはあります」
車いす移動の不便さを痛感しながらも「それでも一日中家にいることは全くないです」と笑う。
