きもの座かたおか
三重県伊賀市
農作業着の行商から始める
かつて伊賀流忍者の拠点があったことから“忍者の里”としても知られる三重県伊賀市で、きもの座かたおかは、明治20(1887)年に呉服商として創業した。初代の片岡喜一郎の父が、創業地近くの荒木の出身だったことから、当初は「荒木屋」という店名だった。
「喜一郎の父が荒木で傘屋をしていて、つくった番傘を干すのに広い場所が必要だということで、今の場所に移ってきました。その傘屋は、いつから始めていたのかは分かっていません」と、初代から数えて四代目となる片岡健太郎さんは言う。
初代・喜一郎は、北海道に木綿の反物を販売する卸売商でのでっち奉公を終えて家に戻ってくると、呉服商を始めた。
「番傘は、明治に入って洋傘が普及してきたため、需要が減っていたのだと思います。呉服商といっても、今のような高級品ではなく、実用的な木綿類を使って、山林の仕事や農作業をする作業着や、その生地を販売していました。初代の妻で私の曾祖母にあたる人が旧大山田村平松の出身で、そこに行商に行くことから始めたようです」
伊賀地方は山林が多く、今の店がある旧上野町は古くから栄えており、この辺りではいわば都会だった。
そこに嫁いできた曾祖母が、山林に囲まれた地域に住む実家の人たちから、「上野に作業着用のいい生地はないか」と言われて持って行ったことが始まりではないかと、健太郎さんは言う。
依頼されて忍者衣装を再現
「二代目である祖父の時代には、かなり苦しい時期もあったようです。生地を農家に持って行って米と交換したり、川上から流れてくる菜っ葉を集めて食べたりしていたこともあったようです」と健太郎さん。昭和に入ると店名を「片岡呉服店」に変更し、終戦後の昭和27(1952)年には、健太郎さんの父親が会社組織にして株式会社片岡呉服店となった。それと時期をほぼ同じくして鉄道が開通し、駅ができたまちの中心部東町に新たに店舗を構えた。
「祖父からは反対されたようですが、父は駅の近くのほうが人が集まるからと、店舗をそちらに移したのです。着物を普段に着る人も多く、取り扱っていたのも銘仙(めいせん・平織りの実用的な絹織物)やかっぽう着のような、日常的に着る着物がほとんどでした」
その後、近くにある伊賀上野城跡の上野公園内に忍者屋敷(現・伊賀流忍者博物館)が開設されると、忍者の衣装をつくる依頼が舞い込んだ。そこで二代目・善三郎が、実際の忍者の服とされていたものの型を取って製作した。
「忍者の服といっても、もともとは農作業着なんです。忍者というのは地侍で、農作業もしながら生計を立てていました。その農作業着の生地が、忍者の服にも使われていたと考えています」
こうして再現した忍者衣装を、当時の型と仕立て法により今もつくり、専用のホームページでネット販売しており、海外からの注文も入ってくるという。
息子に継がせるものを残す
健太郎さんは大学を卒業後、愛知県豊橋市の呉服屋ででっちとして3年間働き、昭和59(1984)年に家に戻ってきた。「店で売るものが、実用呉服から高級呉服に変わっていました。その後、高級呉服も価格が下がり、振り袖などはレンタルが多くなってきました」
そこで健太郎さんは、家賃がかかる駅近くの店を引き払って今の店に戻り、振り袖のレンタルも手掛けるようにした。地元の老舗呉服店ということで地域の人たちからの信頼もあるので、店を続けていけると健太郎さんは言う。
「いいものが欲しいお客さまは今もうちに来ていただいています。また、昔の着物やお母さまの着物を直して着る人が増えました。それをお引き受けするには商品や和裁の知識が必要で、うちのような店でも、まだお客さまのお役に立てるところがあるのです」
6年前には息子の基浩さんが後を継ぐために店に戻り、父親の姿を見ながら店を手伝っている。その息子に店を渡す前に、継がせるだけのものを残していかないといけないと、健太郎さんは考えている。
「祖父の代にもマッチの販売をしたり、台湾まで販売に行ったりなど、いろいろ手を出してきましたが、残ったのはやはり呉服でした。今後も呉服は守っていきながら、忍者衣装の海外販売も展開して、後は息子の好きなようにやっていけばいいと思います。着物は仕立て直すことで代々受け継いでいくことができ、本来はそうして使用するもので、日本の『もったいない精神』を表す衣服だと思います」
きもの座かたおかも、世代を超えて呉服の価値を伝え続けていく。
プロフィール
社名:株式会社片岡呉服店(かたおかごふくてん)
所在地:三重県伊賀市上野車坂町823
電話:0595-21-0256
代表者:片岡健太郎 代表取締役社長
創業:明治20(1887)年
従業員:3人
HP:https://kimonozakataoka.com/
※月刊石垣2020年4月号に掲載された記事です。
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