輪島屋善仁
石川県輪島市
そうめんづくりから輪島塗へ
能登半島の北部にあり、江戸時代に北前船の寄港地として栄えた輪島市は、輪島塗の産地として知られている。その地で輪島屋善仁は、文化10(1813)年に善仁屋善七郎として創業した。もともとは当時の輪島の名産品だったそうめんを製造していたが、輪島のそうめん業が衰退したことから、塗師屋(ぬしや)として輪島塗の製品を製造し、全国に売りに出たのが始まりである。現在は九代目当主の中室耕二郎さんが社長を務めている。
「北前船により交通が発達し、輪島は栄えていきましたが、それと同時にほかの産地の品質の良いそうめんが北上してくるようになり、輪島のそうめんが太刀打ちできなくなりました。そこで始めたのが、輪島のもう一つの産業である漆塗りだったのです。北前船は輪島のそうめん業を衰退させましたが、輪島塗の繁栄には大きく寄与しました。能登半島の先にある田舎の輪島でも、北前船のおかげで全国に顧客を持てたのです」
塗師屋というのは、漆器の販売と製造の両方をとりまとめる親方のような存在で、地元の輪島では職人への製造の指示や指導を行い、自ら全国各地に出向いて顧客を開拓し、注文を取り、出来上がった製品の配達や販売も行っている。「ものづくりの現場で指導しつつ、お客さまの前に立つ。これを弊社は脈々とつないできました。実際に私も、月の半分は外に行商に出ています」と中室さんは言う。つまり輪島塗における塗師屋は、商品企画から生産指導・管理、営業、販売まで、マルチな役割を代々果たしてきたのである。
顧客の生の声を直接聞く
輪島塗は、3〜5年以上かけて乾燥させた木材を使い、一つの製品に半年から1年の時間をかけ、124もの工程を経てつくられる。各工程は10の分野に分けられ、それぞれの分野の専門家がすべて手作業で行う分業制となっている。そのようにして最高の品質を追求してつくられたものだけが「輪島塗」と呼ばれるようになる。
「輪島は、江戸時代から漆器の組合が力を持ち、地域全体の品質管理を徹底してきました。なので、どの塗師屋がつくったものでも同じレベルの品質のものを全国に販売することができ、輪島塗が高い知名度とブランド力を持つことができるのです。この組合の志と、輪島塗のブランドを築いていこうという塗師屋の心意気が、今の弊社の経営理念にもなっています」
善仁屋は創業からずっと自家生産・自家販売を工房規模で行ってきたが、中室さんの祖父である七代目が昭和47(1972)年、高度経済成長の追い風に乗り、ほかの塗師屋と合同で株式会社輪島屋本店を設立。社員も100人ほどに増やした。
「平成の初めまでは順調に商いを行っていましたが、会社が大きくなっても、行商のスタイルは変えませんでした。古いやり方で、今の時代には合っていないところも多いですが、やはりお客さまと直接会って生の声を聞くことが、次の商品開発につながります。能登にいては、いくらテレビやインターネットが進んだといっても、世間の風には当たれませんから」
まち全体の発展を考える
八代目の勝郎さんの代には、新たな取り組みを行っていった。昭和59(1984)年に日本初の漆器専門デザイン会社を設立すると、平成2(1990)年には輪島市内の古い屋敷を修復し、輪島の塗師文化が最も華やかだった江戸時代後期から明治後期にかけての塗師の家を復元した。そして平成10年には、日本産漆の保護と高品質の漆液の確保を目的に、岩手県で漆木の植栽事業も始めた。
「私たちがつくっているのは文化産物で、それらは文化的背景がないと生まれてきません。輪島の先人たちが醸してきた塗師の文化を残していくために、父は塗師の家を復元しました。私は漆木の植栽についても、良い材料を使って良いものをつくりたいという思いから、品質的に優れている日本産の漆を確保するために自社で漆木の森を持つことにしたのです」
このように輪島屋善仁では、単に自社の発展だけではなく、輪島塗と輪島のまち全体の発展を考えた会社運営を行っている。
「会社という木の幹から枝葉を伸ばして私たちは商いをしており、土が肥えないと木は伸びません。木が肥えた分は、必ず輪島の土に返していこうと私たちは考えています。単にお金を稼ぐためだったら、この仕事をやっていません。この仕事は面白いですし、家がつないできたというプライドもあります。そして何より、自分が育ってきた輪島に対して返せるものが大きい仕事だからやっているのです」
最高のものをつくるこだわりと輪島のまちに貢献する志が、輪島屋善仁には脈々と息づいている。
プロフィール
社名:株式会社輪島屋善仁(わじまやぜんに)
所在地:石川県輪島市平成町63
電話:0768-22-0521
代表者:中室耕二郎 代表取締役社長
創業:文化10(1813)年
従業員:27人
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