経営者であれば、誰もが避けて通れないのが事業承継だ。「まだまだ先」と、承継を先送りすることは廃業や従業員の雇用不安へとつながる大きな問題となる。しかし、さまざまな課題や悩みを抱えている経営者は予想以上に多い。そこで、専門家に歴史をからめて解説いただくとともに、事業承継に成功した企業を事例別に紹介する。
総論 長期の安定経営を目指した直虎の覚悟、家康の知恵
鈴木 厚夫(すずき・あつお)/歴史プランナー
中小企業庁によると、今後5年間で30万人以上の経営者が70歳になるにもかかわらず、6割が後継者未定であるという。後継者はどう決めればよいのか。NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」を「事業承継の物語」と位置づけた講演が好評の歴史プランナーの鈴木厚夫さんに、直虎型、家康型の事業承継モデルを解説してもらおう。
どん底状態の井伊家 当主に就任した直虎
浜松市が主な舞台となる「おんな城主 直虎」は、戦国時代、今川の軍門に下った井伊家の男たちが次々と戦死・殺害され、ひとり残された姫が「直虎」という男の名を名乗り、幼い次期当主・直政(虎松)を養育しつつ、お家を断絶の危機から救い、徳川家康の‶ケイレツ〟に入って再興させる物語だ。NHKらしい歴史に忠実なドラマだが、鈴木さんは「視点を変えると、倒産寸前の中堅企業を継いだ女性社長を主人公とした事業承継の物語」になると言う。
なぜ直虎は(当時の考え方では)女だてらに当主となったのか。現経営者と後継者候補が次々に死亡するという緊急事態が起こったからだ。直虎の父・直盛は桶狭間の戦いで討ち死に、直虎の元いいなずけの直親が井伊家当主を継ぐが、反今川の疑いを掛けられて謀殺され、主な重臣たちを遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれる混乱の中の戦で失うというどん底の状態で、直虎は井伊家領主となった。会社に例えるなら「名門だが業績不振、しかも後継者がいない井伊会社の社長に就任した」ということである。【図1】
直虎が社長に就任した時点の井伊家はどん底で「三重苦にあえいでいました」。
苦難その①。主君だった今川義元が桶狭間の戦いで敗れて、井伊家の領地がある遠江国(とおとうみのくに)の支配力が薄れ、武田信玄、織田信長、徳川家康ら有力大名や遠江国人に狙われた。「大名たちの思惑が交錯して三すくみの状態となり、誰が勝つのか情勢が読みにくい状況でした。そのような中、情報を収集し展開を予測したのです」
苦難その②。井伊家には戦う力がなかった。男衆は死に、軍備に使える資金が底をついていた。「そこへ経済基盤の崩壊を狙って今川氏から領民の借金(豪商から借りた金)を帳消しにすることを目的とした徳政令の命令が下りました。徳政令を出せば経済を支える豪商が弱体化します。経済基盤は復活に不可欠なため、井伊家は徹底して抵抗しました」
苦難その③。前当主の直親が死んだとき、後継者となるべき嫡男の虎松はまだ2歳。直虎が後見人となった時点でも4歳だった。「しかも虎松は命を狙われていたため、直虎は命を守りながら、井伊家復活のための教育を施さなければならなかった。そこで当時の教育機関でもあった寺へ預けて、武将として育成したのです」
3つの苦難の対処法をまとめるとこうなる。
「緊急事態にも焦らず状況を把握して、承継の基盤は死守し、全力で後継者を育成したということです。直虎は、自らがやるべきことを事業承継だけに絞り、全精力をつぎ込んだのです」
次期当主を好条件で家康に仕官させる
事業承継のためにやるべきことは、虎松を可能な限りよい条件で、家康に仕官させることだった。そのために3つの作戦を実行した。
①実母を家康の家臣と再婚させた。つまり実母の松岳院を家臣の松下源太郎と再婚させて、虎松に松下姓を名乗らせた。
②家康に直接会える段取りをつけた。家康に関する情報を収集し、鷹狩りに出るときは機嫌がよいと知り、源太郎の弟である常慶に付き添いを頼んだ。
③家康の心をつかむ準備をした。鷹狩りの帰り道に、虎松に直虎自身が仕立てた武士の礼服である小袖を着させてお目見えさせた。作戦が当たり、家康は虎松を一目で気に入り、城へ連れ帰った。虎松は家康に、反今川の疑いをかけられて謀殺された直親の嫡男であることを伝えた。
3つの作戦の結果、虎松は家康から井伊万千代(家康の幼名は竹千代)という名をもらい、300石を与えられて小姓となり、お家復興の許しを得た。
家康は長期政権を目指し経営体制を見直す
そして直虎が井伊家を家康のケイレツに入れたことで復興は成る。
「それは天下統一を実現した信長、秀吉、家康の三英傑の中で唯一、家康だけが長期政権(事業承継)を目指して戦略的かつ具体的な手段を実行していたから。その結果、‶徳川会社〟は15代260年も続く安定企業となり、家臣も繁栄したのです」
家康が熟考した手段は、現代にも通じると鈴木さんは考えている。中小企業庁がまとめた「中小企業事業承継ハンドブック」の最初に掲げられている対策のポイントは「経営そのものの承継」と「自社株式・事業用資産の承継」である。後者は資産の承継がテーマなので前者に絞ると、経営の承継には「経営ノウハウの承継」と「経営理念の承継」があると書かれている。経営ノウハウの承継でやるべきことは「後継者は、経営者として必要な業務知識や経験、人脈、リーダーシップなどのノウハウを習得すること」(同ハンドブック)であり、経営理念の承継では「事業承継の本質は、経営者の経営に対する想いや価値観、態度、信条といった経営理念をきっちりと後継者に伝えていくこと」(同)である。
「この考え方に沿って家康の事業承継を分析すると、『貞観政要』(300年の長期政権を築いた中国唐王朝の二代皇帝・太宗の言行録)を手本にして、まさに同じことを考えていたことが分かります」
貞観政要にこんな場面がある。太宗が2人の家来に、帝王の事業として、草創(創業)することと、守成(守り続けること)ではどちらが難しいかと聞いた。一人の家来は敵に勝ち続けなければならない草創が難しいと言い、もう一人はおごりが生じやすい守成が難しいと答えた。太宗はどちらの答えにも一理あるとしながらも、創業的困難の時期は去ったので、守成的困難に対処したいと結論づけた。
攻めの体制から守りの体制に転換へ
家康も積極的に攻めていた天下統一前の創業的体制から、天下統一後の徳川政権を永続させるための守成的体制への切り替えを急ぎ、内部的対策と外部的対策を打った。【図2】
内部的対策のポイントは二代目となる秀忠を魅力ある人物に育成し、正当な後継者であると位置付けることと、家康亡き後の権力闘争を避けるために、早々に三代目を指名したところにある。
秀忠の育成という点では人間力のある乳母の大姥局を秀忠に付け、酒井忠世をはじめ有力な家臣を補佐とし、人脈づくりに役立てた。後継者の位置付けでは、関ヶ原の後に有力家臣を集めて後継者の人選を相談し、意見が出尽くしたところで、太平の世には武力よりも学問が重要との結論を出し、秀忠の弱点である関ヶ原に遅参したことに対する批判を封じ込めた。その後、将軍職を譲位して大御所となった家康は、三代目に家光を指名して、争いの芽を摘み取った。
秀忠の将軍職就任時には、鎌倉幕府の源頼朝のやり方にならって正当性をアピールした。また鎌倉幕府の歴史を記録した「東鑑(吾妻鏡)」の活字版を刊行して、家臣に日本初の武家政権の歴史を読ませて、秀忠政権が正当な政権であることを意識付けた。その上で将軍を支える年寄(後の老中)に犬猿の仲である大久保忠隣と本多正信をあえて付けた。「側近の権力が突出しにくいようにバランスを考えたのです。それが功を奏して忠隣の専横があぶり出され失脚しています。内部から腐敗する可能性をつぶしたというわけです」
外部的対策として、不安定要素を排除するために、法治国家化の基盤を整備し、外様大名を封じ込めた。安定要素として武士の失業対策や貨幣制度を創設し、戦がなくても食える仕組みを構築した。そして継続する原動力として教育の充実、文章作法を「御家流(おいえりゅう)」に統一した。
ミッションを明確にしてぶれない経営を目指す
そして何よりも注目すべきは、家康が徳川会社で実現したい社会的使命である「ミッション」、目指したい未来像である「ビジョン」、ミッションの実現、ビジョンの追求のために提供する価値である「バリュー」を明確に示したことだ。
徳川会社のミッションは、創業的体制と守成的体制では大きく変化している。創業的体制では戦国乱世を平和な世に変えるという意味の「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」だったが、守成的体制では世の中が太平になったことを示す「元和偃武(げんなえんぶ)」を掲げ、太平の世を長く続けることを社会的使命と位置づけた。
ミッションの変化に合わせてビジョンも変わった。創業的体制では政治的な基盤から経済的な基盤の確立へ移行した。守成的体制では幕府開府期は争いを封じ込める施策を優先させつつ、安定的な統治体制を確立するため法体系の整備や経済政策の確立を積極的に推進した。「このようにミッションの実現に近づくにつれて、ビジョンをステップアップさせています。その結果、戦わなくても食っていける社会、誰もが安心して将来を描くことができる社会、庶民の支持が得られる価値の提供を重視し、それをバリューとして提供することができたのです」【図3】
徳川会社が260年も続いた大きな理由を、鈴木さんはこう分析する。
「家康が定めたミッションが明確でぶれなかったからです。二代秀忠も三代家光も家康のミッションを継ぎ、平和を永続させる体制固めを進め長期政権の土台を築きました」
直虎は徳川の世が長く続くことを読み切っていた。家康に取り立てられた井伊家二十四代直政(虎松)は、「徳川四天王」の一人とうたわれ、常に重臣を輩出する名家となった。幕末期に日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した井伊直弼は三十六代である。こうして直虎と家康の事業承継は奇跡的ともいえる成功を収めたのである。
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