唱歌「ふるさと」「朧月夜」の舞台で日本の原風景
唱歌「ふるさと」「朧(おぼろ)月夜」の舞台となった北信州・飯山市。これらの作詞で知られる高野辰之氏ゆかりの地である。飯山市は江戸時代から菜種栽培が盛んで、春には一面の菜の花畑が広がり、「朧月夜」はその菜の花畑をイメージしたといわれている。
そして、市内には飯山在住の人形作家・高橋まゆみさんの作品を展示する人形館がある。人形館には、懐かしいふるさとのワンシーンを切り取り、そこに流れる空気までも表現する作品が並ぶ。
飯山市は、唱歌に歌い継がれてきたような郷愁の情景が息づき、日本の原風景に出会える場所である。日頃の忙しさの中で忘れかけていた大切なものを思い出させてくれる“悠久のふるさと”だ。
また、飯山市は飯山城址を中心とした城下町でもある。寺が20余りあることから寺のまちとしても知られ、「雪国の小京都」とも呼ばれている。豊かな自然風土の中で独特の文化や歴史、伝統と人情が育まれ、趣深い寺のまち並みや奥深く続く森や高原、四季の彩りをたたえる農作物など、さまざまな魅力があふれている。
長野県の最北に位置する飯山市。長野県内で最も低い千曲川沖積地に広がる飯山盆地を中心に、西に関田山脈、東に三国山脈が走る。南西部には斑尾高原、北西部には鍋倉山、東部には北竜湖などがある。
主要交通網としては、国道が市内を走り、長野市から新潟県十日町方面へJR飯山線が走っている。2015年3月に北陸新幹線の長野~金沢間が開通し、飯山駅が誕生した。
長年の悲願達成 新幹線の駅が開業
北陸新幹線は、すでに長野新幹線として営業運転している長野市から延伸し、飯山市を経て、新潟県上越市、糸魚川市、富山県黒部市、富山市、高岡市、石川県金沢市までつながった。東京から最速1時間41分、長野市から11分、上越市から11分、そして金沢市から約1時間15分。さまざまな都市と短い時間で結ばれ、アクセスが格段に向上した。
飯山商工会議所の伊東博幸会頭は、「北陸新幹線飯山駅の開業は地元の悲願でした。名実ともに北の玄関口となり、期待されている。豪雪地に夢を与えてくれた」と、何十年にもわたる要望の実現を喜ぶとともに、「新幹線飯山駅が開業して3年が経過し、寺巡りの来訪者や外国人観光客など、徐々に乗降客が増え、新幹線効果が表れている」と手応えを感じている。「北陸新幹線飯山駅ができて、終わりではない。降りたくなるような飯山にしなければならない、今やらなければこれから先はない。行政をはじめ関係機関と連携して、新幹線飯山駅を活用した観光による交流人口増と経済活性化、地域産業の創出と育成、企業誘致と雇用確保の推進、訪れる人も住む人もその良さを実感できる地域を目指したい」と意気込む。
飯山駅近くには、商工会議所が所有する「七福の鐘」がある。「寺は36 鐘なら愛宕 奥信濃の静寂な美しさを残し、文豪島崎藤村が『小京都』と呼んだ飯山寺のまちを代表する鐘楼」と記されている。1985年、「一駅一名物」として旧飯山駅ホームに設置され、訪れる人々を鐘の音で温かく迎えたという。一度訪れるたびに一つの願いがかない、七度で商売繁盛、人望福徳、結婚安産、勤労勉学、延命長寿、勇気授福、愛敬富財といった七つの願いがかなうといわれる七福の鐘。新幹線飯山駅開業に伴う旧飯山駅の取り壊しにより、現在地に移設されている。
豪雪を資源と捉えて活用 グリーンツーリズムも
飯山は、古くから山国信州と日本海を結ぶ交通の要所として栄えてきた。塩、魚などの海産物の集散地、また大和朝廷時代の越後・出羽開拓における重要な駅路としての役割を担ってきた。
戦国時代には、上杉謙信の川中島出陣の際の前線基地として重要な地となる。永禄7(1564)年には千曲川左岸に飯山城が築かれた。飯山の都市形成はこの飯山城を中心になされ、幾度かの城主の変転を重ねる中で、次第に城下町としての機能を整えてきた。
江戸時代の初期から中期にかけては、千曲川を利用した舟運と越後に通じる街道を使った物流機能が発達。また、新田開拓とかんがい用水の整備とで、農業の基盤が確立された。
明治維新後は、1871年の廃藩置県で飯山県となり、さらに長野県に編入され、町制は89年に施行された。戦後の1954年に飯山町を中心に秋津村・柳原村・外様村・常盤村・瑞穂村・木島村の1町6村が合併して飯山市が誕生した。市はその後、56年に太田村・岡山村を編入し、現在に至っている。
1893年、飯山を経由しない信越線の開通により、徐々にその物流拠点としての機能を失ったが、その後は農業を中心として飯山仏壇、内山紙などの伝統工芸をはじめとする地場産業により発展してきた。
気候は、春から秋にかけては内陸盆地型気候となっている。冬季は日本海からの季節風が、南西の斑尾山から北西の鍋倉山にかけて連なる関田山脈の影響によって上昇気流となる。そのため積雪量は多く、日本でも有数の豪雪地帯となっている。
観光面では、飯山といえばスキーやかまくらなど、冬のイメージが強い。雪を資源として市内各所にスキー場が開発され、農家の副業としての民宿から冬のにぎわいは始まった。
そして、飯山市の冬の一大イベントとなっているのが「いいやま雪まつり」。37年前、市民が負担に感じていた雪を資源と捉え、地域の活性化を図ろうと、当時の青年部のアイデアから生まれた。今では近隣のみならず、高速道路や新幹線を利用し、遠方や海外からの来場者も多い。商工会議所を主体にまちが一体となって開催することで、雪で遊ぶ楽しさ、雪の美しさを体感してもらい、いいやま雪まつりの原点である「克雪から遊雪へ」の体現を図っている。
その一方、冬季以外にも集客しようと、全国に先駆けてグリーンツーリズムに着手。拠点施設「なべくら高原・森の家」を中心に、自然体験教室や農村体験を実施している。豊かな自然や寺町などの観光資源を生かし、観光客は増加している。
伝統産業の飯山仏壇と内山紙
飯山市の伝統産業といえば、飯山仏壇と内山紙。今から300年前に始まったという仏壇づくりは、仏教信仰の厚い土地柄と、漆塗りに最適な澄んだ空気と適度な湿気に恵まれていることに由来する。
飯山仏壇の木地には、姫小松、杉、檜などが使用されている。厚い木をふんだんに使うので、飯山仏壇はとても重いといわれるほど。古くなった仏壇は、分解して部品を洗って再塗装すれば、新しくよみがえらせることができる。
また、蒔絵(まきえ)が仏壇のあちこちに描かれ、それが金具と金箔(きんぱく)の美しさに溶け合って、独特の趣を醸し出しているのも特徴。仕上げ拭きされた表面に、金箔を置き真綿で拭くと箔に美しい艶が出る。この方法がいつまでも美しい艶を保つ秘訣(ひけつ)だという。そして、漆塗りは三回以上繰り返す。仏壇に金箔を貼り塗装するという根気のいる手仕事に、雪国の人々の粘り強さが感じられる。
市街地の北部にはたくさんの店が軒を並べる仏壇街があり、全国でも有数の生産量を誇っている。現在、市内の仏壇関係就業者は約150人、1年間に約1000本の仏壇が生産されている。
内山紙の製造は、今から約400年前に始まったといわれる。原料に楮(こうぞ)のみを用いていることが特徴だ。また、洋紙パルプが混入されていないことが、優れた和紙をつくり上げるポイント。そして薬品の使用量を少なくし、多量の積雪を利用して原皮に凍皮(夜間雪上に放置して凍らせる)や雪ざらし(雪上に広げてまばらに雪をかけ、この状態で1週間天日にさらす)を行う。このため、自然な白さと丈夫さのある紙ができるといわれている。
時代とともに、部分的に改良が加えられたが、基本は今も受け継がれている。この流しすき技法による楮100%の手すき和紙は丈夫で、通気性・通光性に優れ変色しにくい性質を持ち、その品質は高く評価されている。主に、障子紙や筆墨紙として使われている。
生産従業者は約50人。豪雪地帯の農家が冬季の副業としていたことが、現在までこの地に和紙づくりが残る理由と考えられている。
日本のふるさと体感の旅で第1回地旅大賞受賞
商工会議所では新幹線飯山駅開業を見据え、地域資源を再確認して磨き上げ、新たな特産品や観光商品を開発するプロジェクトを推進してきた。
例えば、2006年度に実施した「飯山・戸狩温泉から元気を発信するプロジェクトV」。りんご、みゆきポーク、かりんとう、雪の四つをキーワードに、地元素材にこだわり、地域生産による「りんご豚まん」や、信州特産品のかりんとうに信州りんごをたっぷり加えた「とがりんとう」を開発。戸狩温泉スキー場などで提供している。
また、08年度には、飯山市の四季折々の景色について「里山がおりなす“ふるさと”の原風景」と銘打って、市役所、観光協会(現信州いいやま観光局)と連携して、「うさぎ追いし飯山・日本のふるさと体感の旅づくりプロジェクト」を実施。09年3月に、第1回地旅(じたび)大賞に輝いている。地旅とは一般社団法人全国旅行業協会が提唱する、地域に誇りを感じている人たちが、そこを楽しみに来てくれる人たちのために、企画しておもてなしする旅のこと。飯山を訪れる人たちへのおもてなしなどが評価されて受賞につながった。現在は、信州いいやま観光局の地旅プラン「旅々」として、雪と遊ぶ、いいやまを食べる、家族で楽しむ、癒やしの森林セラピー、山を歩くなどのテーマ別に提供されている。
伊東会頭は、新幹線の駅を基点に発展し続ける、飯山の未来の姿を描く。
「次のステップに向けて、これからの10年間が非常に大事だと考えています。商工会議所としても6次産業化を推進するとともに、都会とは違った雪国ブランドを生かし、寺のまち・飯山にさらに観光客を呼び込みたい」
冬に準備し、春に一気に芽吹く菜の花のように、飯山のまちも現在の取り組みが全開する日が待ち遠しい。
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