震災を乗り越えて開かれたまちへ
白河市は福島県中通りの南部に位置しており、2011年3月に発生した東日本大震災では強烈な揺れ(震度6強)に見舞われた。その際、市の誇る歴史的な建造物などにも大きな被害が出ている。震災から3年以上が経過した現在でも、市内のあちこちで、その爪痕が残っているものの、復興に向けた取り組みは少しずつだが、確実に進んでいる。また、地域の財産である「白河小峰城」「白河関跡」「南湖公園」などの歴史的な資源を生かし、さらなる発展に向けた取り組みも始まっている。
白河商工会議所の牧野富雄会頭は、「白河は城下町として栄えてきました。そのため、人の気質が頑固で、やや内弁慶な面があり、外部との交流があまり好きではないところがありました。しかし、近年では県外に対しても誇れる歴史的な観光資源を持つまちとして〝開かれた白河〟を目指しています。そのため、考え方もオープンになってきていると思います」と語る。
市内のあちこちに全国に誇れる見どころあり
「古くから東日本の交通の要衝、東北の玄関口として栄えるとともに、地域の中心都市の役割を担ってきました。そのため、市内には歴史を感じさせる建物や施設がたくさんあります。非常に落ち着いた雰囲気です」(牧野会頭)
その言葉どおり市内には、奈良時代から平安時代にかけて、蝦夷の南下を防ぐために使われたという「白河関跡」や国の指定史跡である「白河小峰城」、城外につくられた公園としては日本最古といわれる「南湖公園」など、魅力的な史跡が点在している。白河商工会議所・企画総務課の今井貴信さんは「見どころが多すぎて恐らく1日や2日では、回りきれないと思います。また、まちの中心部から少し離れた場所にあるものもありますので、レンタカーなどを利用するのがおすすめです」とアドバイスする。
課題はたくさんあるが、できることからやっていく
他の地域がうらやむ観光資源を数多く有する白河だが、まだまだ課題もあるようだ。白河観光物産協会の根本節雄事務局長は、「第一の課題は家族向けの宿泊施設が少ないことです。ビジネス客向けの宿泊施設は新白河駅周辺にあるのですが、家族向けは非常に少ないと思います」と語る。
しかし、宿泊施設の不足などのハード面の課題はすぐに解決できるものではない。そのため、現在は、滞在時間をできるだけ長くしてもらうためにソフト面の改善に力を注いでいる。
「代表的な観光施設である白河小峰城、白河関跡、南湖をうまく回遊できる仕組みづくりに力を入れています。またおもてなしの充実も重要です。観光物産協会の窓口でも、タクシーやバスに乗っていても、訪れていただいた方々に白河ならではの親切さを感じてもらいたいです。そうすれば自然とリピーターが増えていくと思います」(根本事務局長)
まちのシンボルを元の姿に戻そう
「白河小峰城が見られないというのは大きいです。城目当てに来る人もたくさんいらっしゃいますので」と観光物産協会の根本事務局長が話すように、白河のシンボルともいえる白河小峰城にも大震災で、大きな被害が出た。崩れた石垣などの修復工事が現在も行われている。
工事を担当する白河市の建設部都市政策室文化財課課長の鈴木功さんは「最初は『誰も下敷きになっていなければいいな』と心配するほどでしたが、幸い人的な被害はありませんでした。また、一番大きく崩れた場所は昭和に入ってから補修工事をした部分。従来のつくりの方が大震災の揺れに耐えたということです。ですから今回の工事は昔ながらの工法で行っています」と話す。
復元工事では、石垣にもともと使われていた石を活用している。大きく崩れてしまった箇所は、その石が壊れるなどしてしまったため、どの石がどこに使われていたかを調べるのに時間がかかってしまったとのことだ。
「文化財ですので、元の姿に戻すのが基本です。調査を慎重に行った結果、修復に時間がかかっていますが、一度作業がはじまってしまえば意外と早く進むと思います。修復の済んだ箇所から順次公開したいと考えています」(鈴木さん)
現在は調査も終わり、実際に石を積み直す作業に入っている。全体工事は平成29年3月に終わる予定とのこと。元の姿に戻った小峰城を見るのが楽しみだ。
江戸時代の白河版ニューディール政策
江戸時代中期に起こった天明の飢饉。そのときの藩主が若き日の松平定信だった。定信は領民を救うために倹約を率先して実施し、他の地域から米を手に入れるなどの迅速な対策を行った。その結果、白河からは餓死者が一人も出なかったといわれている。その後、定信は飢饉後も困窮する領民の救済事業を実施する。大沼と呼ばれていた低湿地帯の改修事業だ。その事業で完成したのが、今では観光の目玉の一つとなっている南湖だ。溜池として周辺の田を潤す機能に加え、藩士の水練・操船訓練にも使われたといわれている。白河商工会議所の鈴木寛専務は「定信公が行ったことは、江戸時代のニューディール政策といえます」と話す。
その南湖の畔には、白河に大きな足跡を残した松平定信公を祭った「南湖神社」がある。この神社は、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の援助によって設立された。援助の依頼を受けた渋沢は資金集めに奔走。神社は大正11年に完成し、渋沢は昭和2年に設立された南湖神社奉賛会でも総裁に就任している。
定信と渋沢とのエピソードはこのほかにもある。定信が寛政の改革の一環でつくった「七分積金」だ。この制度は、江戸町費を節約し、緊急時に備える基金制度。この制度は幕末まで続いた。そして明治に入ると、この制度による共有金は東京市を経て商工会議所の源流となる自治機関である東京営繕会議所・東京会議所に引き継がれ、東京の社会基盤の整備などに使われた。
住民の3倍の客が訪れる伝統のだるま市
顔全体が福々しく、眉は鶴、ひげは亀、あごひげは松、びんひげは梅が描かれ、顔の下には竹を模様化した「鶴亀松竹梅」を取り入れた縁起の良い白河だるま。はじめのうちは、瓦職人が冬の仕事が少ない時期につくっていたといわれている。だるまの顔は、松平定信のお抱え絵師である谷文晁に描かせたと伝えられている。
その伝統の技は今でも継承されており、年間15万個が生産されている。また、毎年2月11日には白河だるま市が開催され、人口約6万の白河市に15万人が訪れる一大イベントだ。
「だるま市は白河で最も大きいイベントの一つです。開催期間中はまち全体がにぎわいます」(白河商工会議所の白石美則事務局長)
「歴史」だけでなく「食」の魅力も充実
白河の魅力は歴史だけではない。食も充実している。まず思いつくのがそばとラーメンだ。
「白河のそば」は松平定信が冷害に強いそばの栽培を奨励したことが起源といわれている。白河は、阿武隈川水系の良い水にも恵まれており、信州、出雲、盛岡とともに「日本4大そば処」のひとつに数えられている。代表的なメニューは割り子そば。小分けされたもりそばをいくらや山菜などの具材で少しずつ味わうことができる。
そして、「白河ラーメン」だ。現在、市内には120店ものラーメン店があり、全国にもその名が知られている。白河ラーメンの特徴は、手打ち麺。昭和20年頃、そば打ち職人がその技を使ってつくり始めたことから、〝手打ちのちぢれ麺〟が誕生したという。スープは醤油ベースで味わい深く「懐かしい味」がするといわれる。
白河商工会議所企画総務課課長の清水秀一さんは「今では県外からラーメンを目当てにやって来る人もいます。それぞれの店が工夫を凝らしています」と話す。
中心市街地にもにぎわいを
復旧工事が進む白河小峰城を中心とした中心市街地も他の地域と同じように空洞化が進んでいた。そこで、白河商工会議所が中心となり、平成21年に中心市街地活性化基本計画(1期)を作成。福島県で第一号となる認定を受けた。
「5年間にわたり、新商工会議所会館、図書館などのハード面の整備を進めました。また、にぎわい創出のためにまちなかでのイベントなども積極的に行ってきました」(牧野会頭)
さらに、今年3月末には2期計画が認定された。牧野会頭は、「1期計画の成果を元に、歴史資源を生かした情緒あるまちづくりを目指したいと思います。また、50年ぶりに市民文化会館が建て替わります。完成すれば、白河で大きなイベントも受け入れることができるようになります」と期待感を口にする。
こうして徐々にハード・ソフト両面の整備が進む白河。こうした流れは、行政と民間の考える方向性が一致してきたことが大きな要因だという。
民間と行政が同じ方向を向く
白河商工会議所の牧野会頭と鈴木専務は「かつては、行政も含め、まちづくりなどに関する継続性が保てない面もあったかもしれません。このため、まちづくりには継続性を持った上で、行政と民間が同じベクトルで物事を考えることが大切だと思っています」と声を揃える。かつては、基幹産業が農業であったことや城下町特有の頑固な気質から地域のまとまりを保つことが難しかったとのことだが、状況が変わりつつあるようだ。
「和知繁蔵前会頭の時代からイベントが増えてきたと思います。だるま市や、9月に3日間にわたって行われる鹿嶋神社の提灯まつりなどの伝統的なイベントだけでなく、昨年はご当地キャラを集めた祭も開かれ、10万もの人に来ていただきました。今年も9月末に開催予定です」(牧野会頭)
さまざまな歴史的な観光資源を持ち、行政・民間が同じ方向を向いて動き出した白河。震災の被害が癒える頃には、今以上に魅力的なまちになっていることだろう。
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