福岡県久留米市、JR久留米駅近くにある「あきない通り」は、かつては「問屋街」と呼ばれ、繊維卸街として九州一の繁栄を誇っていた。しかし、時代の流れとともに衰退し、多くの店が卸から小売りや飲食に業態を変えて生き残りを図っていくことになる。本稿の主人公、西原健太さんが5代目を務めた西原糸店もそんな店の一つである。1917年に糸・繊維製品の卸売業として興り、今では数少ない久留米絣(がすり)を扱う専門店として知られている。
名刺交換から行う商店街活性化
個々の店と同じように商店街も衰退をたどっていた。しかし、2010年秋、西原さんが中心となって新しい商店主による組織をつくり、活性化に取り組んだことから変化は始まる。「店主たちが顔を合わせたときに、まず始まったのが名刺交換でした。近所同士なのにまったくつながりがない。あらためてそれが分かりショックでしたが、逆にチャンスだとも感じました」と西原さんは振り返る。
通りの名称を「あきない通り」に変え、数々のイベントに取り組んだ。人は集まるものの、なかなか商売には結び付かない。決定打を打ち出せないまま悩んでいたとき、久留米商工会議所から参加を呼びかけられたのが個店活性化事業「得する街のゼミナール(まちゼミ)」だった。
「イベントは打ち上げ花火のようなもの。ステージや企画にお金や労力を費やし、その日に何千人と集まっても、次の日は何事もなかったかのようです。その点、まちゼミは普段の商売の延長線上にあるものに思えました。持っている知識にプラスアルファで何かを加えれば、きっとお客さまの感動につなげられる、と」
13年に始まった久留米まちゼミで、西原糸店が開いた講座は「大発見! かすりってカワイイ♡」。代表である母と夫人の3人で、久留米絣の知識の伝授を試みた。
変わり始めたまちの雰囲気
もちろん、西原さんは自店のことだけに関わっていたわけではない。自らまちゼミの旗振り役を買って出て、あきない通りの店に参加を呼びかけた。すぐに主旨を理解して参加を決めた店もあったが、そうでない店も少なくなかった。
「後継ぎがいない、不動産を持っていてとりあえず食べるのには不自由しない……。売り上げを気にするより静かに暮らしたい。そういう方もいらっしゃいました」
店によって事情も考え方も大きく異なるのは当然だ。その現実は現実として受け止めつつ、とにかく自分ができることをしようと奔走。結局、あきない通りからは、西原糸店を含めて4店が参加した。
その後も西原さんは、あきない通りの店主たちにまちゼミ参加を呼びかけ続けた。相変わらず手応えのない人、「放っておいてくれ」と投げやりに言葉を返す人は少なくなかった。
しかし、まち全体が発展することに誰もが異論はないはず。「口やかましい若いやつ」を自認しつつ、めげずに歩き続けると、少しずつ変化が現れた。
「『いらんことをせんでくれ』と言っていた人が、『あんたが言うんだったら、何でも協力してあげるよ』と言ってくれるようになりました。また、イベントに大反対していた人にはしばらく顔を出さなかったんですが、協賛金を募っていることを人づてに聞いて『なんでウチに来んのや!』と叱られました。『せっかく出すつもりで用意しているのに!』と(笑)」
西原さんが歩き続けたことで、まち全体の雰囲気が変わっていった。廃業を匂わしていた店に、若い後継者が働き始めた。新店が出店するという進展も見られた。
21年8月、西原さんの人生は、心不全により突然ピリオドを打つことになる。享年40。前年10月、母に代わり社長に就いたばかりだった。 しかし、まちゼミは20回を数え、その志は受け継がれている。彼の起こした変化は、確実にまちを変え続けている。
(商い未来研究所・笹井清範)
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