乃し梅本舗 佐藤屋
山形県山形市
長年、改良を続け高めた味と品質
山形銘菓「乃し梅」を代々つくり続けている和菓子の佐藤松兵衛商店(佐藤屋)は、文政4(1821)年、初代佐藤松兵衛が山形藩の城下町で創業。当時、城下は出羽三山(湯殿山、羽黒山、月山)を詣でる旅人たちでにぎわっており、そこで和菓子の製造・販売をしていた。
乃し梅は、梅と砂糖、水飴、寒天を原料とし、薄く伸ばしてササの葉(現在は竹の皮)で挟んだ菓子。日持ちすることから旅人の間でお土産として喜ばれたという。山形藩でつくられるようになった由来は諸説あるが、一説には、山形藩の御殿医だった小林玄端が長崎に遊学した際、中国人から梅を使った気付け薬の製造方法を伝授され、それを山形で再現したのが始まりだといわれている。
七代目の佐藤松兵衛さん(代々、当主が松兵衛の名を受け継いでいる)は「山形では特産品である紅花の色を抽出するために梅の酸を使っており、梅の生産も盛んでした。佐藤屋が乃し梅をつくり始めたのは三代目のころ。とはいえ初代のころにはすでに製法が伝わっていたので、初代もつくっていたかもしれません」と言う。山形市では現在でも和菓子屋数軒が乃し梅を製造・販売しているが、最も古い製造記録を持つ一軒が佐藤屋なのだという。
「乃し梅は日露戦争の際に、戦地にいる乃木希典大将に届けられたという記録もあります。ただ、当時は風味や品質に難点があり、佐藤屋では明治から大正にかけて、製法の改良を続けていきました」
明治時代、四代目松兵衛は東京や関西各地で修業し、新しい技術の習得に努めた。山形に戻ると、乃し梅の改良を続行。そしてその成果を測るために、全国菓子品評会や内国勧業博覧会(国内産業の近代化・発展を促進するための政府主導の博覧会)などに出品していった。
「明治40年前後には毎年、全国各地で開催されていた展覧会に出品していました。そのたびに原料や道具、製法を少しずつ改良して味と品質を高めていきました。大正になると、今とほぼ同じつくり方が確立できたそうです」
こうして「乃し梅」は山形を代表する銘菓となり、県外の人々にも広く知られるようになっていった。そして昭和に入ってからは、東京の三越デパートでも販売。爽やかな酸味のある甘みが好評を得ていたという。
しかし、戦争が始まり、戦局が深まると、砂糖などの物資が配給制になってしまう。佐藤屋の操業も困難になっていった。
「佐藤屋としては製造を続けていくことができなくなりましたが、うちの工場を使って山形の菓子組合が共同で和菓子をつくり続けていました。また、菓子のつくり手である五代目が戦争に召集されなかったということもあり、終戦後、比較的スムーズに工場の再稼働ができたそうです」
新しい和菓子を模索
昭和24年には店を再開。五代目の長女と結婚した婿が六代目を継ぎ、26年に現当主の七代目松兵衛さんが生まれた。「店に入る前に2年間、名古屋で和菓子づくりの基礎を学びました。昭和50年代に店に戻ってからは営業に携わり、デパートやショッピングセンターへの出店を担当しました」
店舗の拡大は順調に進んでいった。しかし、同時に、もどかしさも感じていた。「伝統を守るのと同時に新しいものもつくっていかなければなりません。ただ私は一人では和菓子をつくれない。だから、自分のアイデアを製造現場に伝えるしかないわけです。これはなかなか難しかった。でも、幸い京都の店で5年間、みっちり修業してきた長男が後を継いでくれることになりました」
そして、八代目となる長男が店に戻ってきてから完成した新しい製品が、乃し梅にチョコを掛け合わせたお菓子「たまゆら」だ。「オレンジピールをチョコでコーティングしたお菓子がおいしかったので、これを乃し梅でもできないかと思ったのです。なかなかうまくできなくて諦めていました。それを息子が自分のオリジナルのお菓子として新しいアイデアで商品化してくれました」
今でも伝統の味は守りつつ、八代目が中心となって新たな商品づくりに励んでいる。しかし、軸はぶれていない。その軸とは「山形」だという。「地方の人口が減少していくなか、『山形ならでは』の特徴を持ち、それを全国に広めていかないと、これからは生き残っていけません。まずは地元の人においしいと言われるものをつくっていき、それを全国展開していこうと考えています」
山形らしさを守りながら、変革を続ける老舗菓子店。その菓子店がつくる山形の新たな銘菓が日本全国に広まっていく日は近い。
プロフィール
社名:株式会社佐藤松兵衛商店
店名:乃し梅本舗 佐藤屋
所在地:山形県山形市十日町3-10-36
電話:023-641-2702
代表者:佐藤松兵衛 代表取締役社長
創業:文政4(1821)年
従業員:50人
※月刊石垣2015年12月号に掲載された記事です。
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