平成23年3月に発生した東日本大震災。この未曽有の大災害において、さらに人々を苦しめたのが福島第一原子力発電所の事故である。原発事故の影響は深刻な懸念となり、発生直後から世界中でさまざまな情報が飛び交った。テレビ、新聞、そしてインターネット。洪水のように押し寄せた情報の波の中で、一個人でありながら、冷静に各種のデータをTwitterから発信し続けたのが、東京大学教授の早野龍五さんだ。そして震災発生から今日に至るまで、情報発信だけにとどまらず、被災地の人々の生活をサポートするべく力を注ぎ続けている。
物理学者として、自分に何ができるのか?
早野さんは原子物理学者だ。東京大学大学院理学系研究科の教授で、専門は〝エキゾチック原子研究〟。毎月のようにスイス・ジュネーブにあるCERN(セルン)研究所へ赴き研究を重ねている。すでに20年近く研究チームのリーダーを務めているが、このような国際的研究機関において、日本人をリーダーとしたチームが活躍し続けているということは非常に珍しいという。
「研究を続けてきて、これまでに素晴らしい賞も頂きましたけれど、正直に言うと日常の役に立つとは言い難い。私の研究は物理学の、非常に基礎的なものですから」
柔和な笑顔で語る早野さん。和装と相まって、研究者というよりは、博学な知識人といった印象を受ける。
普段、物理学に関わることのない人からすれば、馴染みのない世界の最前線で活躍する人、ということになるのかもしれない。そんな彼が、くしくも日本、そして世界中の注目を集めることになったのが、Twitterによる福島第一原発事故に関する情報発信である。放射線量などのデータを分析して発信し続け、現在のフォロワー数は実に12万人。最大時には15万人にものぼった。
ただ、早野さんは放射線の専門家というわけではなく、原子力発電に関する専門家というわけでもない。では、なぜ事故後から継続して情報発信を続けたのだろうか。
「僕は研究者です。われわれの研究には、少なくない国費、税金が投入されている。では、その頂いた税金に対して、どうやってペイバックしていくのかというのは、研究で成果を挙げるだけで追いつくか? すごく難しい問題だとこれまでもずっと思っていました。そういった思いを抱きながら、大震災が起きたとき、すでに身分と名前を明かしてTwitterをやっていましたから、『こういうときに自分に何ができるだろうか』と考えたとき、できるだけ時間を、そこに向けようと思ったのです」
こうして始めた情報発信から、徐々に現地に住む人々との交流が生まれた。平成23年の夏には、福島県内の病院で内部被曝検査に関するサポートをするようになる。病院のスタッフを対象にした講演会から始まり、同年の秋には福島県内における給食の放射能汚染検査実施を提案するまでになった。文部科学省に交渉して実施を実現し、翌年からは予算化もされた。
「世の中、そして福島の現状を見て、やれば何か答えが出せる問題があると思いました。でも見たところ、他の人はやっていなかった。だから僕がやってもいいのかなと。逆にいうと、本当に専門家の人がやるならば、自分の出番ではないと思っていました」
今、福島で起きている事実を正しく知ってほしい
継続して内部被曝検査のサポートをしてきた早野さんは、その後、「検査だけでなく、その結果を科学的な成果を問える形で国際的に発表しなければ」と、平成24年には査読つきの英文の論文を発表。約3万人規模の検査結果から、福島県の食品由来の内部被曝が低いことを明確に国内外に示した。さらに平成25年には、小さな子どもたちの内部被曝を正確に検査するための検査機『BABYSCAN』を製作した。
「次に何をしたら、現地で頑張っているお医者さんたちの助けになるのか、ひいては暮らしておられる方々の助けになるのか。そう考えたときにつくろうと思ったのが、ベビースキャンです」
この検査機は、立った状態で検査される従来の機器とは異なり、乳幼児が横になったまま測定できるというものだ。こだわったのはデザイン面。当時、慶應義塾大学の教授で工業デザイナーの山中俊治さん(現東京大学教授)に協力を依頼し、使いやすく、なおかつ、親子が安心して利用できるものを目指した。
「機器自体は、6tくらいの鉄の遮蔽体で囲まれているんです。けれど、お母さんが安心して子どもを中に入れられる検査機でないといけないので、そうは見えないようにデザインしてもらいました」
ベビースキャンを使って平成25年から26年にかけて、約2000人の赤ちゃんを測定。結果、放射能物質が体の中から出てきた赤ちゃんは、一人もいなかった。さらにベビースキャンの功績の一つが、内部被曝に関して不安を持っている親と直接会話し、正しい情報を知っていただく場が生まれていることだと早野さんは言う。
「現地で内部被曝に関する講演会などが行われたとしても、聞きに行く人はごく一部。本当に不安を持っているお母さんたちの多くには、なかなか正しい情報が伝わらない。ベビースキャンなら、子どもの検査をして、さらにスタッフがお母さん方の話を聞いていけば、その不安を解消することができる。コミュニケーションツールとしても重要な役割を果たしています」
正しい情報を元に、福島の現状を知ってもらいたい。早野さんのそんな思いは、一冊の本を生み出すことにもなった。それが、コピーライターの糸井重里さんとの共著『知ろうとすること。』(新潮文庫 430円+税)である。
「論文を書いたことで、専門家の人に向けては現状を伝えられたと思います。次は一般の方に向けて、今の状況を何らかの形で伝えるべき時期がきたんじゃないかと思いました」
糸井さんとの何十時間にも及ぶ話し合いの中から生まれたのがこの一冊。震災に関して興味が薄い人にも手に取ってもらえるよう、〝放射能〟や〝原発〟という言葉はタイトルに入れなかった。より多くの人に手に取ってもらいたということから、書き下ろし文庫サイズでの発売となった。
「完全に安心だと思っている人。何を言っても絶対に危険だと思い込んでしまっている人。いろいろな人がいる中で、不安と安心との間で揺れ動く人がいる。起きている事実を知ろうとせず、何となく怖いなぁって思っている人もいる。そこに届くような本にしたいなと、糸井さんと話してつくりました」
本書は早野さんと糸井さんの対談形式でつづられている。起きてしまった事実に対することだけではなく、将来に向けて、前向きになれる内容も多く盛り込まれた一冊だ。
現地の人にこそ正しい情報を伝えたい
今後の活動について尋ねると、意外な言葉が返ってきた。
「僕ができるようなことは終わったかなと思い始めたからこそ、本を書き始めたんです。僕はもともと物理学者ですから。ただ、最近そうでもない気がしていて……」
早野さんが今でも懸念していること。それは、福島県内に住む人々が、科学的に見て健康的に問題のない生活をしていることが明らかであるにもかかわらず、依然としてそれを実感していなかったり、福島県産の食べ物は買わないなどの風評被害があったり、という事実だ。
「依然として『水道の水は飲んでも大丈夫なのですか?』といったような不安を持っている現地の人も多い。先日ショックを受けたのは、福島市が実施した意識調査。平成26年5月の段階で、約4分の1の人が、今でもできるならば福島市から避難をしたいと答えていたことです」
少なくとも内部被曝に関しては、福島県内では問題にならないという現状を、どうやったら住んでいる人に知ってもらえるのか――。この課題を解消することが、早野さんの次なる目標となっている。
「平成26年度から、相談員制度というものが始まり、そのお手伝いをさせていただいています。この制度は、実際に被災地に住んでいらっしゃる方の健康に関する不安などを、相談員が聞くというもの。今後はこの相談員を育てたり、バックアップしてあげられたらいいなと思っています」
自分にできることをしていきたい。ただ、自分自身が被災地に住んでいるわけではないため、継続が難しいこともある。何でもかんでもが可能なわけではない。大切にしているのは、バランス感覚だ。
「僕を必要としてくれる限りはお手伝いをしたいし、逆に言うと、復興の邪魔になることはしたくない。そういった距離感、バランスを大切にしていきたいですね」
この意識があるからこそ、これまでも、そしてこれからも、人々に求められる支援を行っていくことができるのだろう。
早野龍五(はやの・りゅうご)
物理学者
1952年岐阜県出身。東京大学大学院理学系研究科教授。専門はエキゾチック原子。スイス・ジュネーブにあるCERN(欧州合同原子核研究機関)研究所で行っている反陽子ヘリウム原子と反水素原子の研究チームは、ASACUSA(アサクサ)として世界的にも知られ、CERN内の実験室は東京大学海外拠点の一つにもなっている。平成23年3月に発生した東日本大震災以降、Twitterにより現状分析と情報発信を行ってきた。
写真・村越将浩
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